日本昔話のことばかり書いていた時期があって、いま、なにを読んでいりゅかというとドイツ昔話ですだ。忠誠のね。 ああ、昔ってみんな貧乏だった。お金の問題も既にあったけど、なにより食べるってことが大変だった。 ちなみに、近代フランスの話も平行して読んでいるのですが、19世紀の終わりにきても田舎の土地無し百姓は、納屋で寝てたりするっす。 そしてみんな乱暴で粗野で盲信で、自己保存の前には、友愛とかシンパシイとか無かったっぽいよ。そんなのみんな余裕のなせるわざなのね。 中世ドイツも近代フランスも日本昔話も、食うか食われるか、騙すか騙されるか、喜劇も悲劇もみんなそこから、動物への擬人的な比喩話も、東西同じようなものなのです。
きっとみんな病的な肥満を除いては、痩せてたんだろうなあ。 顔だって、頭蓋骨の形がありありと分かるようだったんでしょう。
ずっと、皮肉なこと極まりなしと思っているのが、人間は自分自身の顔だけは見ることができない。まあ、背中は置いておきましょう。手・足・腹・指 OK。 鏡でみる自分の顔は当然反転した顔なんだけど、それ以上に立体として自分の顔をとらえることができない。 写真は無理やり平面にしたものだし、微妙なタイムラグの中での表情だから、誰でも違和感をもつ。鏡像の認識とさえずれてるわけ。いずれ3Dが発達すれば、とは思うけど、どうだろうね。まだまだ3Dは何千年も前からある彫像に、なかなか勝てないと思うよ。結局ホログラムの可能性はあるとしても、3Dを2次元で再生する現状では、笑止。立体って、つまり頬に両手を添えてみる たとえ触れられなくても 視覚と触覚(の記憶)と、人間の認識って多角的。
形には凹凸があって、見るということには光が必要で、二つをたすと陰影ができる。よく言われるように、アルカイックな仏像に、人間的な感情の発露を感じるのは陰影による印象の変化が大きい、とわたしも思う。 (思い出編。わたしは以前仏師になりたくて、彫刻刀で、よく大好きなお地蔵さま あえて如来にならない仏 を彫っていましたね。青春ですね。みんな似たような地蔵顔でも鼻スジと目のくぼみ 頬の輪郭で、みんな違う顔になります) 表情をかたちづくるのが、肉 筋肉や柔らかい脂肪だとしたら、そしてそれらはかなりの割合で、自力で変えていけるのですが、あるひとが、一瞬 外の世界へ意識 を向けることを忘れ、無防備に、無表情になったときに、他人が受け止める印象は、肉の中にうもれた骨がかたちづくる、絶対に自力では変えることのできない、骨の凹凸、そこに光があたり浮かびあがる立体感ではないのかしら。
眠るひとや死んだひとを眺めるとき、笑った顔、怒った顔、記憶にたくさんある彼らの印象はあっというまに遠ざかり、静かな、変わらないものをそこに見てきました。やがて寝返りをうち、少し口をあけたりした顔に、焼け残った頭蓋骨の硬いしっかっかりとそこにある質感に、なぜだか同じような ほっと息をつけるような安心を感じました。 なぜなんだろう。 これは始めて考えることかも。 「在る」 ということかしら。 生きている、ということ。また逆に肉は消え、記憶は薄れてもすべてを形づくっていたものは手に触れるることができる「これだったのだ」というあっけらかんとした確認かしら。 人間が人魚姫のように泡になって消えたら、むしろ残されたものは救われないのでは。不安かも。修道僧が、頭蓋骨を手元において、メメントモリと唱えたことはとてもよく理解できます。 目に見える手に触れることのできる形がうつろう色であったとしても、あるのだ、あったのだ、という この過程をすっとばしての悟りは欲しいとは思わない。 貪欲に確認したい。手当たりしだい、見て 触れてみたい。 肉に埋もれた他人の骨を垣間見てみたい。 もう面倒だから、どうぞわたしの頭蓋骨の形でもみてください、わたしは見たことないんだけどね、と世界に投げ出してみたい。 でも美味しいものが大好きなので、肉はまとわりつたままだけど。 それに、骨が剥き出しの、本質まるだしの世界が楽しいところだとは、思わないけど。
酔っ払って泣いたら、グラスにいっぱいのお酒をこぼしてしまい、情けなさに笑いなきして、頬骨のきれいな俳優をテレビでみていたら いつのまにかこんなことを書いていた。 注)読み返してません
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