痒痛 ☆ 日記 
お酒と音楽と変人と。菫色の日々。

2002年09月29日(日) マスコット

物でも人でも なぜ 捨ててしまった 手放してしまったのか・・・ と後悔するものなんてない、と思っていたけど、ひとつだけありました。
本なんだよね。絶版になった文庫本ってのは古本屋でもみつからなものですね。
でも本気でネットを駆使してでも、再び手に入れようとは まだ思っていない。
いつどうやって、手放したかは覚えてないけど、これはもう捨てよう とはっきり決めて処分したことは覚えています。それにしがみつくのがもういやだったような、そういう部分を捨てたいと思っていたような。

ブラジルの小説家であり映画人でもある人の自伝的要素の強い本 2冊なんだけど。買ったのは小学生の頃。どこの本屋で買ったかも覚えている。何十回も読んでおとなになって何度ひっこししても持ち歩いていたけど、いつだったか自分で捨てた。不思議なことにどう処分したかまったく覚えていない。たぶんゴミとして捨てたんだろう。捨てる前の日の夜にこの2冊を読んで、その前の何十回かと同じように 泣いて泣いて でももう捨てようと決めたんだった。

”おとなは自分で太陽を暖めることはできない”
最後のフレーズに とうとう そうだ、と思ったのかもしれない。そして、あの白黒チェックのハンカチが ポルさんがゼゼの涙をぬぐってくれた、シュシュがリオに帰る船に港でふられた あのハンカチがほんとうに水平線の向こうに見えなくなった時だったのかもしれない。

わたしのことを ゼゼと呼んでください、でなければシュシュ もしくはグム。中学生の時にそう打ち明けられる友達がいたらどんなにか嬉しかっただろう。もしそんなgiftが訪れていたら、もっとゆっくりおとなになったんじゃないかな。

この話は 貧しい ということは辛い。貧しさゆえに笑ったり 夢見たり 優しくしたりできなくなってしまうから。そこからはじまる。そこから逃げる 抵抗するには小さな子供は想像力をつかうしかない。想像する力が強くなれば、早熟な子供にならざるをえない。自分の痛みで手いっぱいのなずの子供なのに、想像力ゆえに他人の痛みもわかってしまう。わかられてしまったおとなは辛い。早熟であることは子供にとって幸せなことではない。

でもそんなことはあちこちにどこにでもあること。だから、この話のどこがそんなに好きだったかといえば そんなことをわかってしまっている子供がわかっている自分をわかった上で 想像の中での 愛されること 愛すること の交歓の様子だ。
はじまりは 庭のスイートオレンジの木。ひきがえる。映画の中の紳士モーリス・シュバリエ。そして現実の女の子。それらを経て、わかっていても愛せなかった現実の家族の元へ帰っていく。
こうして書くと ほんとうに分かりやすい物語ですね。でも物語ではすべてのものが人間のように語り、ひきがえるも学校の先生も同じ むしろかえるか 重さをもつ存在として描かれている。すべてのものが語る言葉をもつ というのはわたし達にはむしろとても受け入れやすい安心する世界ではないですか?
だから おとなになったら 庭にオレンジの木を植えよう と思ったし、かえるをみると、夜 枕元に尋ねてきてくれないか と思った。考えてみるとわたしのかえる好きは 大元はこの本なのかも。
ポルさんが死んで オレンジの木はなにも語らなくなったし、彼が女の子を好きになったとき、ひきがえるはさよならを言いにきたし、進路に迷い、リオに帰ろうとするとき、理想のパパ モーリスも去っていく。
現実 人間を選ぶ。その時 たしかに自分を暖めてくれていたものたちとの決別がある。おとなになってちょっと考えてみればそれらは自分の中にあったもの、作り出したもの、世界と交わろう伸ばした手だったのだとわかる。
でも もう おとなは自分で太陽を暖めることはできない。

とてもブラジル的。もう手が届かない。サウダージ。
ある時までわたしは オレンジやひきがえると語る言葉がすきですきで この本を繰り返し読んでいた。ある時、それらが失われる瞬間はもういい よくわかったからもう読まなくてもいい とこの本を捨てた。

いまは、手放したことを後悔している。でも、再び手に入れようとしているわけでもない。
金魚を飼い サボテンを育て かえるを自分のマスコットにして、人間を好きになろうと努力している。
怖い 醜いニュースに耳をふさぎ 世界を好きでいようとバランスをとっている。


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