って乗り物のことね。 で、大乗と小乗っていったら仏教ね。 先週から仏典の中の仏典 法華経 を少しでもわかろうと勉強したんだけど、この日記を以前からお読みの方には 薄っすらお分かりかもしれませんが、 やっぱり なんとなく 大乗 って苦手。
大きい乗り物でみんな救いましょう が 大乗で 小さい乗り物 つまり一人は一人で自らを救いましょう が小乗。乱暴にいうとそういうことみたいよ。もちろん大乗側のつくった言葉ですが。
どっちも到達点は一つ 偉大なる調和を知り 永遠のいのち 如来に連なるものであるとわかること。インディオの教えでも言ってるよね。ヒンドゥーの行者も。 頭じゃなくてホントウにわかるためへの 路だけど、その行き方 方法より始めの持っていき方が違うっていうのかな。
どっちでもいいんだよね。ただ やっぱりみんな になると、現世ではすぐ間違えたりするでしょう。 一人と一人の 一人と沢山の 志や思いの方向が違っていても 怖くはない。けど沢山と一人の 沢山と沢山の が違うと 怖いことが起こる。 仏教だって宗教だし、教団だって宗派だってあるし、まして古代仏教はもっと布教という意味では いまよりずっと過激だったでしょう。
もちろん小乗派だってね、独善のわなだってあるし、エリート主義もあるし、大乗にそこをつっこまれてきたんだろうし。
宗教の教義を読んだりするのは わりと好きだけど、ある部分ある部分 とても心が明るくなるけど、ある部分ある部分で、首を傾げたりしてしまうので、結局信者にはなれない。結局 信心は実践で 教えは口頭で 刷り込まれていくもの。母国語のように。大人になって なにかを求めて なにかに惹きつけられて ではわたしのあこがれる ただ信じる ただ愛する ただ委ねる にはなかなかなれないように思うのです。
わたしが死んでも世界は変わらず美しいはずだ わたしが死ぬとひとつの世界が消える。 そして あなたが死んでも世界は変わらず美しい あなたが死ぬとひとつの世界が消えるはずだ。
それが わたしのいつかしら芽生えて 今も残る信心なのです。
八月六日。
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