Kin-SMA放言
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2003年07月07日(月) 24時間は短かすぎますよ

ぼくは久保先生(谷原章介)と同じだ〜。

『SMAP×SMAP特別編 僕とあなたの生きる道〜ONE DAY〜』

掃除ですね。

でもぼくの場合、「したい」というより、現実問題として

せねばならん。(←だらしなさすぎ!)

この部屋の状態のままじゃ、死んでも死に切れません。



掃除し始めたらし始めたらで、「読まなかった本」や「観なかったビデオ」に引っかかって、ムダに時間だけが経っていきそうだな。

「観なかったビデオ」なんて、24時間どころか、1年あっても全部観きれないんだす、白状すると。

なので、

死にたくねぇ。(←愚か者!)

でも、いざとなったら、諦めがつきそうだな。

何一つ観られなくても、「もういいや」ってなりそうだな。

ダメじゃん、自分。



でもおかしなことに、ぼくは矢田ちゃんと同じことも日常考えてたりする。

今日、これから出かけた先で死ぬことだって、あり得るんだよねって、たまに(“たまに”かよ)考えてる。

そういう時って、不思議と「それはそれでいいか」と思ってる。

投げやりってわけでもないんだけど。

部屋の汚さ以外には(←これ自体、非常によろしくないことなのでは?!)、ぼくの人生、あんまり後悔というか、「どうしても思い切れないやり残したこと」って、ないのかもしんないなって。

幸せなのかも。(←ある意味、とってもね/皮肉)



ホント、いざとなったら、すんごくくだらないことしちゃいそうだな。

でも、パニクらない(根拠のない)自信だけはあるのだ。

それはおそらく、今言ったみたいに、時々「今日死ぬことだってあるかもな」って思ってるからかも知れない。

第一ぼくの歳では、剛君が言ったみたいに、「80歳ぐらいまで生きられるんじゃないか」っていう、誰でもがそう思ってる考えでいたとしても、もう半分以上生きちゃってるんだもんね。

生まれてから今日までの人生・・・何やってきたかなぁ? って考えると、ホント大したことやってきてないしね。

生まれてから現在までの時間より、現在から死ぬまでの時間の方が、多分短かいぞ、と何年か前から考えるようになったんだけど。

もうちっと、がんばって生きなきゃいけないはずなんだけどね。

自分に甘いね・・・(ちょっとだけ反省)←“ちょっとだけ”ってとこが甘いんだよ!



家族や好きな人たちとは、一緒に過ごさないと思う。

哀しい思い出を残しそうで(←キザ)

それより、ありったけ手紙書くだろうな。みんなに。

あとで、「みんなのことを想ってた」ぼくを、思い出して欲しいから(←やらしい)

でも、すばらしいメッセージなんかは書かない(多分書けないし)

うちのじいちゃんが死んだときに、彼が書いた最後の日記(死ぬ前日)が、ぼくは好きだ。

全然大したこと書いてないの。自分が死ぬこと知らなかったからね(脳溢血だった)

一言だけ、「今日は何だか調子が悪い」みたいな感じだった。余計なことツラツラ書いてないだけに、その日付とその一言が、その日までじいちゃんが生きてた確かな証、って感じがして、ぼくら家族にとってだけだけど、なんか、すごい名文って思うのだ(ぼくら家族だけがね)



自分が死ぬのを知らないで死ぬって方が、やっぱり幸せなのかもな。

昔は、死期を知って死にたい、と思ってたんだけど。

やりのこしたことがないようにしたかったから。

でも・・・やっぱね、やりのこしたことって、200歳まで生きたって、あるんだろうなと思うよ。



矢田ちゃんが最後に「生きる方向に向いて行かないと、ダメですよね」って言ってて、ポジティブでいいなぁと、感心しました。矢田ちゃん、いい子だなぁ。

そして、それを「そうですね」って聞いてるツヨぽんの美しいことったら。(最後にお約束の発言)



今日の『レ・ミゼラブル』(プレビュー公演2日目)でも、ぼーぼー涙流して帰ってきたんだけど、この番組を観て、また気持ちのいい涙流して。

悔し涙とか、一身上の悲し涙とか、本当に辛いだけの涙を今どこかで流している方たちには申し訳ないんだけれども、こういう、カタルシスになる涙を流せるぼくの今の生活は、やっぱり幸せと言えるでしょう。

ごめんな(なぜ謝る? つうか、誰に謝ってるの?)

二日連続きんきっずナッシングだった(それに謝ってるのか?!)




←いや、身辺整理というわけではなく、ネタづくりというか(ド助平!)




明日は、大丈夫(24時間後も生きていられるという、根拠のない自信。凡人でスイマセン)


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