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1975年04月25日(金)

レムリアの誕生

レムリアという概念が生まれたのは1860−70年代である。その当時イギリスの地質学者のあるグループが、インドと南アフリカにおいて見られる化石と堆積層が酷似していることを指摘した。インドのストウとブランフォード、アフリカのグリエスバッハなどの地質学者たちは、2億4500万年から2億8600万年前の二畳紀(ペルム紀)の堆積層が、インド、南アフリカ、南アメリカ、そしてオーストラリアにおいて、堆積岩、たとえば石炭層などのタイプの点で、ほとんど同じものであると指摘した。加えて、これら大陸の堆積層は、cordaitesやGlossopterisなどの地上植物の化石、Therapsidsなどの地上動物の化石など、同じ化石を含んでいた。そのような地上の植物や動物は大海を渡ることはできないし、大陸が動くわけはないと考えられていた。そこで、これらの地質学者はその同じ化石植物や動物がインド、アフリカ、南アメリカ、オーストラリアに存在した理由を説明するために、陸の橋あるいはむしろ一つの大きな大陸がかつて存在し、それが海の底に沈んだのだという仮説を立てた。一つの例として、彼らはインドと南アフリカの間をつなぐ大きな陸の橋を仮定した。ネウメイアの「Erdegeschichte」(1887)という著作において、この仮想的な陸の橋は「インド−マダガスカル半島」と呼ばれた。(de Camp 1954)

トーマス・フックスレイと同じくダーウィン進化論の熱烈な信奉者であった、アーネスト・ハインリッヒ・ヘーケルは、この「インド−マダガスカル半島」仮説が動物の分布をよく説明することに気づいた。ヘーケルは、アフリカ、インド、マダガスカル、マラヤ半島に生息するキツネザル(lemur)の分布をこの仮説を用いて説明した。彼はこの陸橋が、キツネザルがそれを利用して広範囲に分布できるほど長い期間海上に存在したのではないか、という考えを提案した。イギリスの生物学者である、フィリップ・L・スケルターは、この陸橋のことを、上のキツネザルにちなんで「レムリア(Lemuria)」と名づけた。こうして、レムリアは先史時代の人々によって名づけられたわけでも確かめられたわけでもなく、1800年代の地質学者と生物学者によって作られたのである(de Camp 1954)。プレート・テクトニクス理論あるいはその他のより平凡な理論が、堆積層や化石、キツネザルの分布を明快に説明したとき、レムリア大陸やその他の失われた大陸、陸橋が存在しえないことが明らかになったのである。(Wicander & Monroe 1989)

(注:参考サイト レムリア大陸、ムー大陸、アトランティス大陸
http://village.infoweb.ne.jp/~fwjf1899/tondemo/dic/ )

レムリアの復活

レムリアは失われた大陸として、現代の最も有名なオカルティストであるブラバツスキー夫人によって再び世の中に現れてきた。ブラバツスキー夫人はその著作「The Secret Doctrine 秘密の教え」の中で、レムリアのアイデアをアトランティスや科学、オカルト、「リグ・ヴェーダ」を含むヒンズー教の経典と、滅茶苦茶な形で混ぜあわせている。その本によると、レムリアとはインド洋における失われた大陸であり、両性具有で卵を産む類人猿のような生き物が住んでいたという。後に、オカルト話や失われた大陸説を書いた人々、例えばアニー・ベサントやW.スコット−エリオットなどによって、彼ら独自の詳しい内容や脚色がレムリアの話につけ加えられ、恐竜の話や12−15フィート(1フィート〜30cm)の高さの青銅製の人間型ロボットの話などまでつけ加えられた。レムリアの復活に関する最後の出来事は、オカルト本の著者がレムリア大陸をインド洋から太平洋へ移してしまったことである。(de Camp 1954)。 それから、神秘主義者や超能力者たちがレムリアに関して無数の本を書き、また、霊的な要素をもった話や、最初から存在しないはずのはるか昔に死んだとされるレムリア人の魂との霊媒通信、などの話へと変容していった。

大陸移動説が現れてきたとき、それとその他のより平凡な理論が、動物や化石、植物の分布を「失われたレムリア大陸説」よりよく説明できることが知られるようになった。結果として、レムリア説は信用されなくなり、GEOSATやSEASATなどの人工衛星から得られたデータが、レムリア説が作り話だったことを証明するよりずっと以前に、より現実的な理論によって失墜させられていた。(参考文献: de Camp, S. L. "Lost Continents: The Atlantis Theme in History, Science, and Literature." New York: Gnome Press, Inc.,1954. Other references: Wicander, R. and Monroe, J. S. "Historical Geology: Evolution of the Earth and Life Through Time." New York: West Publishing Company, 1989.)

(注:大陸移動説の起源は1912年と古いが、プレート・テクトニクス理論として確立されたのは1960−70年代と言われており、一般に知られるようになったのはもっと後であろうと思われる。つまり、真光が立教された1959年頃には、大陸が移動することはあまり知られていなかったと思われる。)

1985年に私は日本で2回目の上級研修を受講した。そこには、壊れた陶器、浮き彫りの石像、真鍮製らしきもの、などの古い遺物が置かれてあった。講師は、これらは聖なる師(岡田光玉氏)によって発見されたものであり、ムー大陸のものであると主張していた。講義のとき私の隣に座っていたのはアンドリス・テベシス氏であった。私は彼に尋ねた。炭素年代測定法か何かの方法でそれらのものの年代を測定できるのではないか、と。彼の返事はこうだった。「それらは聖なる師が発見されたものだ。」私はそれ以上彼に質問する機会がなかった。彼は別の席に移動してしまった。私はこれ以上質問すべきでないとされているのだ、という強い印象をもった。もし聖なる師が、ス神の地上代行者が、それらをムー大陸の遺物だと言えば、誰が何と言おうとそれはムー大陸の遺物だということなのである。

【上級研修時の写真】

(受講者の前にムー大陸のものとされる遺物が並んでいる。)

長い年月の後、現在の私は安心のうちにある。1985年に私が見たものは、ムー大陸のものではありえない。もしそうなら、ハインリッヒ・シュリーマンによるトロイの遺跡の発見よりも世界から大きく注目されているだろう。真光教団は、岡田氏こそ本当の世界史についての最も信頼できる権威である、という証明を示す機会を拒んでいる。もし真光が、世界が一つであり地球が一つであり人類が一つであると主張するその証拠を提出するならば、最も熱心な懐疑論者でさえ受け入れる可能性があるだろう。

岡田氏が説明する真の世界史の情報源の一つは、ジェームズ・チャーチワード大佐によって書かれた著作の中に見られる。彼はムー大陸についていくつかの本を書いている。真光の上級研修のテキストブック(1989)の中の第四章において、岡田氏は「The Lost Continent of Mu 失われたムー大陸」(1950)からいくつかの文章を引用している。

真光青年隊は、神聖な4の数字のシンボルを表すバッジ(隊員章)を身につけている。それは、宇宙の運動と働きの鍵となるものである(第四章P.14)。彼等のユニフォームの袖とブレザーの胸のポケットの上には、ムーの聖なる紋章が貼り付けられている。ムーの聖なる紋章は、この地上のすべての人間がその支配のもとにあることを示している。(Ch4.p20)


左から、隊員の制服(夏用)、隊員が胸や腕につけているムーの紋章、隊員章、???

すでに述べたように、スの神は彼の子孫であるスメラミコト(天皇)をムーの皇帝として遣わしたという。そのムー帝国とのつながりが、再び真光青年隊との間に確立されているのである。真光青年隊は、いわば、スメラミコトの軍隊なのである。

デイビス氏は言う(1980, p80-p83);例えば、失われた(沈んだ)大陸の話をしてみよう。これは、バラ十字会員から神智学協会員に至るまでの西洋のオカルトグループの間で人気のあったテーマである。失われた大陸は、一般的にはエデンの園、ヘスペリデスの庭、エリシュオンの広場、などとして描かれた。これは原初の楽園、すべてのその後の文明、物質文化、精神文化、アルファベット、人種の起源とされた。

そのようにして−真光においても−それはいとも簡単に未来の天国文明のプロトタイプ(ひながた)となったようである。人類の歴史を、文明が生まれる以前の状態から文明化された状態への進展と見る科学的考古学に反して、失われた大陸に関する神智学の神話は、現在の人類の状態を過去の文明から堕落した状態と見る傾向がある。

救い主がこれらに関する第一の情報源としたのは、英国系米国人であり、歴史的フィクション(あるいは、架空の歴史)のライターである、ジェームズ・チャーチワード大佐である。チャーチワード氏が集めたムー大陸の証拠というのは、イースター島の書字板、インドやマヤの記録、ナーカル(naacal)の書字板、トラオラノ(traorano)の写本、そしてラサの記録などの古い記録によるものである。その他の証拠は、「要請により名前を伏せたインドやチベットのある修道院に保存されている」、ということである。チャーチワードが、それらすべての「古代の記録」を解読できた理由は、独特の言語学習法があるからだということになっている。だが、彼は単にそれらの言葉を長いことじっと見つめ、彼の内なる意識の中から彼独自の意味を引き出したに過ぎない。

ムー大陸に関するチャーチワードの説明の中に、岡田氏が織り込んでいった考え方の多くは、茨城県にある竹内(たけのうち、たけうち)一族が保管していたと言われている「記録」あるいは「古文書」からとったものである(竹内文献)。岡田氏が得たこの種の情報は、「日本に隠されていた真の世界史(The Authentic History of the World Secreted Away in Japan)」と呼ばれる本の中で、山根キクが最初に言い出したものである。救い主が古代史の真の姿と考えたものが、まさにこの本の中にある。−私たちは知りました。イエスは日本で死んでいます。それと同様にして、その他のあらゆる聖者、聖人が日本を訪れました。−

この本は、文字が日本で発見されたという岡田氏の考えの源の一つにもなっている。加えて言うと、「神代文字(しんだいもじ)」は、徳川時代の排他的神道主義者たちの間で人気のあった偽物の文字だった。例えば、平田篤胤(あつたね)の「神字日文伝(じんじにちぶんでん)」、落合直澄(なおずみ)の「日本古代文字考(にほんこだいもんじこう)」などに神代文字のことが出ている。

しかしながら、伴信友(ばん のぶとも)(1775-1846)は、これらの文字の信憑性について異議をとなえた。そして20世紀になってようやく、ほとんどの言語学者が神代文字の信憑性を信じることをやめた。だが、第二次世界大戦に先立つ極めて国粋主義的な時代には、神代文字は再び人気を取り戻し、それは特に陸軍士官学校などの愛国的かつ軍国主義的な集団の中で顕著だった。岡田光玉氏はそこで教育を受けていたのである。その文字の真の重要性などは観念上のものにすぎない。現代の言語学者は次のように確信している。神代文字は、隣の中国の言語と文字に対する日本人の劣等感を払拭するため、またナショナリストが古代日本を理想化するため、そういう理由で作られたものにすぎない、と。同じようにして、神代文字は真光の教義の中に流れる排他主義を表す材料となっていった。

デイビス氏が言うには、岡田氏は文献からたくさんの情報を集めたが、それらのほとんどは批判的な調査に耐えられない。彼は自分の研究を真光の研修テキスト、歌集(祈言集)、御聖言にまとめた後、それらが神に起源をもつとして、日本の神の印を押したのである。(注:つまり、神から授かったものだとした。) より広い一般社会に対して私が心配していることは、アンドリス・テベシス氏が岡田氏とその娘の教えこそが神の真理でありそれを普及させるのだと宣言した、まさにそのことだけである。オーストラリア州政府によってそれが認められたと彼が主張することはそれほど心配することではなく、それはまた別の問題である。


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