2004年04月17日(土) |
韓国産メロドラマを斬る |
映画「ラブストーリー」のヒット、そしてテレビでは「冬のソナタ」がお茶の間の話題を席巻し、若い女性を中心として日本では空前の韓国メロドラマ・ブームである。「冬のソナタ」の主演男優ペ・ヨンジュンが先日来日したが、成田空港には5000人の熱狂的な女性ファンが「ヨンさま!」と口々に叫びながら出迎えるなど加熱している。
しかしどうも僕は韓国産メロドラマが好きになれない。何というか雰囲気が古色蒼然としているんだよね。日本映画を例に挙げるなら「君の名は」(1953)とか吉永小百合の「愛と死をみつめて」(1964)とかを彷彿とさせるものがある。40年遅れてるんだよ。ただ、いまや現代の日本では気恥ずかしくて作られなくなったこうしたいわゆる<純愛>ドラマに大和撫子が飛びつくという現象は、それだけ皆がこうしたものに飢えていたということなのだろう。「鉄道員」「壬生義士伝」「天国までの百マイル」など、あざとさが売りの浅田次郎の小説が人気があるように常日頃から「泣きたい」という衝動に駆られている日本人というのは案外多いのかも知れない。
韓国の人々は昔からこのようなメロドラマが大好きで量産されていたようだ。しかしつい5年ほど前までは韓国映画が日本で公開されることは殆どなかった(そのあたりのことは昨年7/5の日誌に詳しく書いた)。「シュリ」の大ヒット以降、一転して大量になだれ込むようになって漸くそういった類の作品も紹介されるようになったということなのだろう。国際政治学者でもある桝添要一氏は、「韓国は泣きの文化」と言っているがその国民性とメロドラマが人気があることは無関係ではあるまい。
さて、そろそろ本題である「ラブストーリー」を俎上に載せようか。この監督の作品は「猟奇的な彼女」でも想ったのだが、余りにも偶然に頼りすぎるのが閉口する。この2作品は最後の落ちがあり得ない偶然の暴露で終わるという作劇法が共通しているのだが、これはいただけない。名脚本家でもあったビリー・ワイルダーはシナリオ作りの基本について触れ「映画を芝居に喩えるならば、偶然を用いても良いのは導入部=一幕までで、二幕や三幕で偶然に頼るのは非常に稚拙なやり方だ。」と一刀両断している。正にその通りだと想う。陳腐な偶然の積み重ねを「愛の奇跡」と称して騙せると想うなよ。
それから基本的な問題として「ラブストリー」という作品では主人公のふたりが交互に受け渡すネックレスが小道具として重要な役割を果たしているのだがこれが納得いかない。だってあれ、もともとはヒロインが好きでもない婚約者の父親から貰ったものでしょ?何でそれを愛の証として恋人にあげることが出来るの?いくらないんでも無神経じゃない?このエピソードは明らかに映画「タイタニック」の猿まねなのだが、結局「タイタニック」のシナリオの問題点までそっくり引用してしまう羽目になったんだよね。「タイタニック」に登場するダイアモンドをめぐる矛盾については「タイタニック」ラスト・シーンを嗤う(←クリック)というエッセイを以前書いているので参照されたい。
主人公のふたりとも結局最愛の人を諦めて大して好きでもない別の人と結婚するというのも納得いかない。そりゃあふたりも不幸だろうが結婚した相方に対しても失礼じゃないか。やはり儒教の影響力が強い韓国の父権制社会では絶対権力者である父親には逆らえないということなのか。
音楽の使い方も稚拙。使用されているクラッシック音楽、パッヘルベルの「カノン」とかベートーベンの「悲愴」とかありきたりすぎるんだよ。それからヒロインにピアノを弾かせるなら必ず指が鍵盤を弾いているショットを見せなければ駄目。エモーションが高まらない。そのあたりは「さびしんぼう」とか「ふたり」など大林宣彦監督の映画を観て、クァク・ジェヨン監督はもっと勉強すべきだろう。映画の挿入歌もイモなんだよなぁ。特にあの長渕剛もどきの歌は勘弁して欲しかった。雰囲気ぶち壊し。評価:D
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