エンターテイメント日誌

2002年05月20日(月) <E.T.>の想い出

「E.T.」20周年記念版を観た。懐かしかった。そしてこの映画と出会った20年前のこと、そしてそれから現在に至るまでの事どもが走馬灯のように脳裏にに蘇り、胸の内から熱いものが込み上げてきた。

この映画が公開された年、僕は高校生で郷里岡山にいた。試写会に葉書で応募するも落選、しかし同級生が当選していたのでそれを100円で譲り受けた。学校の授業が終わって自転車で映画館に馳せ参じ、ワクワクして観た。映画が公開されてからも何度か観に行って、都合映画館で六回ほど観ただろうか。だから今回久しぶりに再見して細かいカット割、カメラワークまで鮮明に覚えていたので我ながら驚いた。

この映画の素晴らしさは、ストーリーや特撮だけにあるのではなく、スピルバーグの卓越した演出力に負うところが大きい。例えば映画の後半までカメラは母親以外大人の上半身を撮ろうとはしない。これはスピルバーグが愛するディズニー映画や「トムとジェリー」などのアニメーション映画では至極当たり前の手法なのだが、子供(やE.T.)の目線で捉える世界観を劇映画に持ち込んだのはおそらくこの映画が最初だろう。またそれが、腰に沢山の鍵をぶら下げてカシャカシャ鳴らす男の不気味な存在感をいやが上にでも高める効果にも寄与しているのである。さらにスモークを焚き(チンダル現象により)多数の光の筋を交差させる演出が随所に見られ、極めて印象的。人物をカメラが捉える際、ロング・ショット、バスト・ショット、クローズ・アップとパッパッパとテンポよく切り替わる、いわゆる<3段ズーム>もエモーショナルな効果をあげている。

E.T.とエリオット少年が自転車で月を横切る場面はこの作品を象徴する名場面であり、スピルバーグの映画会社アンブリン・エンターテイメントのロゴマークにもなった。後で知ったことなのだがこの映画史に残るファンタジックなシーンはディズニーの「ピーターパン」へのオマージュであった。「ピーターパン」にはフック船長の海賊船が月を横切る場面があるのである。だから「E.T.」本編にも母親が娘に「ピーターパン」の一節を朗読する場面があるのだろう。

「E.T.」が公開された当時はまだCDが登場しておらず、サントラもLPだった。この映画を気に入ったマイケル・ジャクソンがナレーターを務める本編を(台詞・効果音付きで)ダイジェストでまとめたレコードも発売された。この頃スピルバーグはマイケルを主演に「ピーターパン」のミュージカル映画化を企画し、ジョン・ウイリアムズは数曲作曲したという。しかし結局それは実現せず、後にスピルバーグはおじさんになったピーターパンを主人公に映画「フック」を撮る。ジョン・ウイリアムズはミュージカル「ピーターパン」の為に書いた曲を「フック」に流用したそうだ。

劇中、エリオット少年がE.T.にスター・ウォーズのキャラクター人形を紹介する場面がある。また、ハロウィンの日にヨーダが登場し、親近感を抱いたE.T.が近づこうとするほほ笑ましい場面もある(ここでウイリアムズはちゃんとヨーダのテーマを挿入する)。おそらくこれに対する返礼なのだろう、「スター・ウォーズ エピソードI」ではアミダラ姫がバローラム最高議長の不信任案を提出する元老院の場面でE.T.が特別出演している。スピルバーグとルーカスの厚い友情を伺わせるエピソードと言えるだろう。

「E.T.」は映画が公開された年、米アカデミー賞で作品賞・監督賞でノミネートされるも、立派な題材ではあるが映画的魅力に欠ける愚鈍な「ガンジー」に敗れることとなる。ある映画評論家は「アカデミー会員はオスカーとノーベル平和賞を取り違えているのではないか?」と書いた。どちらが真の傑作であったのかは歴史が証明している。スピルバーグはこの後、「シンドラーのリスト」と「プライベート・ライアン」でアカデミー監督賞を受賞するのだが、僕は「E.T.」でこそ彼に受賞してほしかった。日本ではベルナルド・ベルトリッチの「1900年」を抑えて、「E.T.」が見事キネマ旬報の(評論家選出、読者選出共に)ベスト・ワンに輝いた。

しかし、この頃のドリュー・バリモアは可愛かったなあ。特にあの叫びっぷり!こんなおしゃまな少女が後にドラッグに溺れたり、2度の離婚を繰り返すなどと、いったい誰が想像しただろう?

ジョン・ウイリアムズは本作の音楽でアカデミー作曲賞を受賞。彼がボストン・ポップス・オーケストラを率いて来日したとき、僕は大学生になっていた。高校時代のブラスバンド部の親友と大阪までそのコンサートを聴きに往った。「E.T.」の音楽が終わった後、その友人が僕の肩をたたいてこう言った。
「隣に座っていた若い女の子が、音楽を聴きながら感極まって涙を流していたよ。」と。
僕らはその日、音楽の持つ偉大なる力について大いに語り合った。この時のコンサートでは、当時まだ映画は公開前だった「ジュラシック・パーク」の音楽もお披露目された。恐らくあれが世界初演だったのではなかろうか?

その友人は30歳の夏、新婚旅行から帰ってきて直ぐに急性骨髄性白血病を発症し、あっという間に亡くなった。アトランタでオリンピックがあった年のことである。トランペットの輝かしいソロのあるそのオリッピック・ファンファーレを作曲したのがジョン・ウイリアムズで、僕はトランペット吹きだった病床の友人にそのCDを送った。

これがこの20年間のささやかな物語である。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]