そう思いたい自分。 |
たとえば、自分と合わないんじゃないかなと思う人がいる。 すると、その人が起こす行動の一つ一つを検証するようになる。
『こういう事をした、こういう事を言った。』
そして、やっぱり私はこの人とは合わない・・・と思う。
でも、その人がやったと同じ事を仲の良い友達がやったらどうだろう。
そんなに不快になったり、腹が立ったりするだろうか。
人は、自分の思っている事、感じる事を肯定したくなる。
自分が合わないなと思ってる人が、良い人であってはいけないのだ。
いい所は見つけたくない。
自分が嫌だと思っている事の証拠探しをしようとする。
自分と合う人、合わない人に、同時にメールを出してみる。
そして、その2通とも返事がなかなか来なかったとしたら。
合わない人に対しては、『返事をくれないなんて失礼だ。』と思う。
合う人に対しては、『きっと、忙しいんだろうな。』と思う。
同じ行動をしても、こちらの取り方次第で変わってしまう。
それは当然と言えば当然なのだ。
合う人とは、もうすでにちゃんとした関係が出来上がり繋がっているから。
相手の行動に対して、信じることが出来る。
合わない人に対して固定観念を取り払い、ニュートラルな気持ちでいると、
ぽんっとメールの返事が返ってきたりする。
きっとそういうものだ。
すべては、私のココロ、観念、判断が生み出しているものなのだ。
相手に悪い感情を持った時、それは自分がそうしたくてしているのだ。
相手にそうさせられているのではないのだ。
同じく、こちらの事も人は人の価値基準で判断する。
相手は、なんらかの理由があって、
(その原因が必ずしもこちらにあるということではない)
こちらを悪者にする。
悪者にしなくてはいけない理由が、その人にはあるのだ。
だから、人に良く思われようとか気に入られようとか、
そこに関しての努力はいらないんだと思う。
自分が自分らしくあること、それだけでいいんだ。
気に入られようとして取った行動が、必ずしも相手に良い印象を与えるわけじゃない。
たまたまその行動が相手のトラウマを刺激してしまったとしたら、
相手はこちらの事を好いてくれるはずもない。
自分らしく、そのままでいるのがいいんだ。
メールが出来なくたって、会えなくたって、電話できなくたって。
あなたと私の関係は、ちゃんと育っている。
心配しないで。そして私も、心配してないよ。
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2004年06月28日(月)
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