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2007年08月27日(月) 尊敬する人

24日の日記に、中学生の頃に尊敬していたのは東郷平八郎で、部屋の壁に日の丸を貼りつけ、その横に東郷元帥の写真を額に入れて、いつも拝んでいたと書いた。
で、高校に入ってから、その日の丸や額が、吉田拓郎やボブ・ディランのポスターに替わったわけだが、べつに拓郎やディランが尊敬する人というわけではなかった。

そういう人たちの反戦歌を聴いたり歌ったりしながらも、尊敬するのは、相変わらず東郷元帥だった。
その証拠に、高1の夏休みに東京に行った際、明治神宮を参拝したあと、ちゃんと東郷神社にお参りしている。
東郷神社というのはこちら福岡にもあって、日本海海戦の戦場が一望できる山の上に建っているが、ここにも一度お参りしている。
歴史を知れば知るだけ、あの戦いがどれだけ重要なものだったのかがわかってきた。
それでさらに尊敬の度合いが強くなったわけだ。

中学の頃だったが、クラスで尊敬する人というのが話題になったことがある。
それでぼくは、東郷平八郎の名前をあげた。
他の人も、それぞれに尊敬する人をあげていた。
ところが、中に「何で親を尊敬しないんだ?」と意見する人がいた。

「親がいなかったら、生まれてこなかったわけでしょ?親を尊敬せんで誰を尊敬するんね?」
「あんたの言い方だと、親以外尊敬したらいけんということになるやん。それなら最初から尊敬する人などという言葉なんかいらんやろ」
「だから親を尊敬しとけばいいやん」
「それじゃノーベル賞は取れんやろ」
「何で?」
「親を尊敬するということは、親を目標にするということやん」
「親を尊敬してもノーベル賞は取れるよ」
「ふーん、じゃああんたの親はノーベル賞を取るくらい偉い人なんやね。立派、立派」
その後、「お前は素行が悪い」「おまえの方が悪い」と互いのけなしあいになってしまい、わけのわからないまま議論は終わってしまった。

今だったら「価値観の違い」という言葉一つで片付くのだが、当時は誰もそういう言い回しを知らなかった。
というか、まだ個性だの価値観だのいう時代ではなかったのだ。


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