24日の日記に、中学生の頃に尊敬していたのは東郷平八郎で、部屋の壁に日の丸を貼りつけ、その横に東郷元帥の写真を額に入れて、いつも拝んでいたと書いた。 で、高校に入ってから、その日の丸や額が、吉田拓郎やボブ・ディランのポスターに替わったわけだが、べつに拓郎やディランが尊敬する人というわけではなかった。
そういう人たちの反戦歌を聴いたり歌ったりしながらも、尊敬するのは、相変わらず東郷元帥だった。 その証拠に、高1の夏休みに東京に行った際、明治神宮を参拝したあと、ちゃんと東郷神社にお参りしている。 東郷神社というのはこちら福岡にもあって、日本海海戦の戦場が一望できる山の上に建っているが、ここにも一度お参りしている。 歴史を知れば知るだけ、あの戦いがどれだけ重要なものだったのかがわかってきた。 それでさらに尊敬の度合いが強くなったわけだ。
中学の頃だったが、クラスで尊敬する人というのが話題になったことがある。 それでぼくは、東郷平八郎の名前をあげた。 他の人も、それぞれに尊敬する人をあげていた。 ところが、中に「何で親を尊敬しないんだ?」と意見する人がいた。
「親がいなかったら、生まれてこなかったわけでしょ?親を尊敬せんで誰を尊敬するんね?」 「あんたの言い方だと、親以外尊敬したらいけんということになるやん。それなら最初から尊敬する人などという言葉なんかいらんやろ」 「だから親を尊敬しとけばいいやん」 「それじゃノーベル賞は取れんやろ」 「何で?」 「親を尊敬するということは、親を目標にするということやん」 「親を尊敬してもノーベル賞は取れるよ」 「ふーん、じゃああんたの親はノーベル賞を取るくらい偉い人なんやね。立派、立派」 その後、「お前は素行が悪い」「おまえの方が悪い」と互いのけなしあいになってしまい、わけのわからないまま議論は終わってしまった。
今だったら「価値観の違い」という言葉一つで片付くのだが、当時は誰もそういう言い回しを知らなかった。 というか、まだ個性だの価値観だのいう時代ではなかったのだ。
|