30年前の冬に、ぼくはデパートでアルバイトをしていた。 商品センターでお歳暮を地区別に振り分ける仕事だった。 生まれ育った場所なので、特に地名や地理を覚える必要もなく、比較的楽な仕事ではあった。 とはいえ、時にはわからない地名を書いた伝票が回ってきて、困ったこともある。 しかし、大概は区画整理前の地名であったり、バス停などにある地名だったので、古い地図を調べたり、誰か知っている人がいたりして解決していた。
ところが、一回だけ、誰に聞いてもわからない地名に遭遇したことがある。 『八幡西区大字蒲原』 こんな地名は聞いたことがない。 古い地図にも載ってないし、『蒲原』というバス停もない。 年配のチーフに聞いても、「そういう地名は聞いたことがない」と言う。 しかも、悪いことに届け先の電話番号を書いてない。 おそらく住所を間違えているのだろうと思い、送り主に尋ねることにした。
「この届け先は、大字蒲原でいいんですか?」 「ええ、いいですよ」 「八幡西区ですか?」 「はい、そうですよ」 「すいませんが、地図調べてるんですけど、こういう地名が見あたらないんですよねえ」 「でも、郵便物はそれで届くよ」 「どの辺になるんですか?」 「いや、死んだ親の知り合いなもんで、自分も知らんのよね」 「電話番号はわかりませんか?」 「わからん」 「そうですか…」 「郵便局に聞いてみてよ」 「わかりました。そうします」
郵便局にはチーフが電話してくれた。 「おい、わかったぞ」 「どこでした?」 「今の青山」 「青山ですか」 「それ、かなり昔の住所らしいぞ」 「いつ頃のですか?」 「郵便局の人の話では、戦前とか言いよったけど」 「戦前ですか。じゃあわかるわけないですよね」 「わしゃ知らんかったぞ」
青山は高級住宅地で、ぼくもいつかは家を建てたいと思っていたところだが、その旧地名から察するに、昔は湿地で蒲がたくさん生えていたのだろう。
上の話は、今朝急に思い出した話である。 何で今頃、こんな昔話を思い出したのかと考えていたのだが、どうやら坂井泉水の死と関係がありそうだ。 坂井泉水の本名は、蒲池幸子というらしい。 「蒲池、蒲池、そういえば…」となったのだと思う。
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