風にのって ぼくが若い頃、ぼくも含めてであるが、わりと多くの人が「風」という言葉を口にしたり文字にしたりしていたようだ。 どういうことかというと、例えば詩や歌詞などに、「風」という言葉を用いているものが多かったたということだ。
どうしてそういう現象が起きたのかというと、それはおそらく、ボブ・ディランの『風に吹かれて』の影響が多分にあったからだと、ぼくは思っている。
The answer,my friend, is blowin' in the wind. The answer is blowin' in the wind. 「その答は、風に舞っているだけさ」である。 素直に読めば、実に曖昧な答である。 そんな答しか導き出せないのなら、最初から問題提起なんかするな、と思ったりもするだろう。
ところが、この曖昧な答が受けた。 いや、この一見曖昧に見える答「風」であるが、実はそこに深い意味があると捉えたのだ。 それゆえに、多くの人がディランを真似て、「風」という言葉に意味を持たせて使うようになった。 例えば、そこに自由という意味を持たせたり、人生を象徴させたりしていたものだ。 ぼくの場合も同く、「風」という言葉にそういう意味を持たせているものが多い。 が、一つだけ、違う意味で「風」という言葉を使っている歌詞がある。
ぼくのオリジナル曲に『風にのって』というのがある。
思い出すよ 風、風、風、君と 二人出逢った 街、街、街並を 吹き狂ったよ 風、風、風、君は 少し笑顔を 染めて
それからぼくは 夢、夢、夢ばかり 忘れたことも ないよ 苦しみだけを 耐え、耐え、耐え抜いて 待っていたのは 風
君は言葉も交わさずに 遠く風にのって行っちまった 取り乱したぼくは明日をなくして 今こっそりと、ただうつむいているだけ
しらけたこの 夜、夜、夜は 少しばかりの 笑いもなくして 飲み始めた 酒、今日、この味は もうわからないほどに こういう歌詞である。 ちょっと読むと、その人の登場を新鮮な「風」に喩えたとか、ある風の強い日にその人と出逢ったとかいう印象を与えるかもしれないが、実は違うのだ。 ぼくは、そんなにロマンチストではない。
では、どういう意味があるのかというと、「風、風、風」と言うことで、その人を呼んでいるのだ。 どういうことかというと、当時好きだった人の名前の中に『風』を連想する文字があったのである。 それで、この歌では、強引にその人を「風」としてしまったというわけだ。
そういえば以前ある人から、「『風、風、風』というところは、もしかして『かずえ、かずえ、かずえ』と言ってるんじゃないですか?」と聞かれたことがある。 「風」を、人の名前として捉えたのは間違ってないが、仮に『かずえ』と聞こえようとも、ぼくは決して「かずえ」と言っているわけではない。 もちろん、好きだった人の名前も「かずえ」ではない。 だいたいそんな、調べたらすぐにわかるようなことを、するわけないでしょうが。
ちなみに、『吹く風』の「風」は、その人のことではない。 ということで、「もしかして、その風という人は、『福岡かずえ』という名前ですか?」などと勘違いなさらないようにお願いします。
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