今のところ、相撲にはまったく興味がない。 地元力士の魁皇はあんな調子だし、本場所は朝青龍の独壇場になっているし、他にこれといった力士がいるわけでもないし、全然面白くないのだ。 まあ、元々相撲というのは、あまり好きなほうではなかった。 なぜ好きになれなかったのかというと、ぼくが子供の頃は夕方の5時台にアニメや子供向きのドラマをやっていたのだが、場所中は祖父が相撲を見るためにテレビを独占していたので、そういう番組が見られなかった。 そのために祖父を恨み、相撲を恨んだのだった。 今でも呼び出しの声を聞くと、あの頃の悔しさを思い出す。
とはいえ、まったく相撲が嫌いというわけではない。 過去に何度か、相撲にはまっていた時期がある。 新しくは今から10年ほど前だった。 その時期は、舞の海や寺尾、旭道山といった小兵が活躍した時期である。 小さな力士が大きな力士を投げる姿は、実に痛快だった。 その頃は呼び出しの声も気にならず、そういった小兵力士の取り組みはほとんど見ていた。 舞の海が勝った時などは、相撲ダイジェストも見ていたものだった。
それ以上にはまっていた時期がある。 それは中学2年の頃だ。 その頃は、中入り後の取り組みや相撲ダイジェストはほとんど見ていたし、本場所中は毎日スポーツ新聞を買っていたものだ。 さらに雑誌の『大相撲』などを毎月購入していた。 で、何で相撲にはまっていたかというと、後に名大関と謳われた貴乃花(先代)の活躍にあった。 貴ノ花の取り組みの時は、いつも緊張感を持ってテレビにかじりついていたものである。 特に横綱北の富士やライバル輪島との一番は目が離せなかった。
ぼくが一番印象深かった取り組みは、横綱北の富士との一番だった。 北の富士の外掛けを、貴ノ花は体を反ってうっちゃろうとした。 が、そのまま貴ノ花は北の富士を抱え込むような形で、後ろに倒れてしまった。 その時、北の富士は貴ノ花の顔の横に手をついてしまった。 行司の木村庄之助は、それを確認して貴ノ花のほうに軍配を上げた。 庄之助はそれを北の富士の『つき手』ととったわけである。
ここで物言いがついた。 審議の焦点は、『つき手』か『かばい手』か、ということだった。 審判委員は、貴ノ花が倒れたのは、北の富士をうっちゃったせいではなく、北の富士の外掛けに倒れたのだと言うのだ。 つまり『死に体』である。 ということは、北の富士が右手をついたのは、身をかばったからだということになる。 しかし、ぼくには貴ノ花のうっちゃりが決まったように見えた。 審議中に何度も流れたビデオを見ても、確かにうっちゃっている。 確か、解説の人もそういうニュアンスで話していたと思う。 ということで、「軍配が覆ることはない。悪くても取り直しだろう」と思っていた。 ところが、長い審議の末に出た結論は、北の富士の勝ちであった。 その結果『差し違い』をしたことになった庄之助は、翌日から謹慎処分を受けることになったのだった。
これは昭和47年の初場所でのことである。 昭和47年というと、今から33年前か。 えらく古い話を思い出してしまったわい。 こんな古いことを思い出したのも、『貴ノ花死す』の一報が入ってきたからである。 まだ55歳だったのか…。 非常に残念である。
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