しばらくして先生の手が止まり、ぼくの口元から離れていった。 看護婦さんが来て、「起こします」と言った。 起きるなりぼくは、看護婦さんが「うがいして下さい」という前に、口の中にたまっていた麻酔液を吐き出した。 そして、その後何度もうがいをした。 背後から、「じゃあ、そのままお待ち下さい」という声が聞こえた。
しかし、大の男が歯医者の治療イスに座って、麻酔が効いてくるのをボーッと待っているのも変なものである。 せめてイスを倒してくれたら、居眠りくらいすることも出来るのだが、座っていると何にもすることがないのだ。 出来ることといえば、窓の外を眺めることぐらいだ。 この歯医者の窓は大きいので、外の風景がよく見える。 ということは、逆に外からも中が見えているということだろう。 イスに座ってボーッとしているぼくの姿は、きっとおかしく映っていたに違いない。
さて、時間がたつうちに、注射中から効いていた麻酔がさらに効いてきた。 鼻の下の感覚がなくなり、それが唇にまで降りてきた。 『ちっ、やっぱり唇に来たか』とぼくは思った。 唇に来ると、うがいをする時に締まりがなくなり、そこから水が漏れるからやっかいなのだ。 昔、これで衣服を濡らしたことがある。 そこでぼくは、口を閉じた感覚をつかんでいようと思い、何度も口を開け閉めして、その感覚を覚えることにした。 そして、何とかその感覚をつかんだ。 ところがそれがいけなかった。 唇を動かすことによって、麻酔の範囲が広がってしまったのだ。 その麻酔がどこに影響したのかというと、鼻である。 小鼻のところがジンジンしてきたのだ。 鼻がしびれるなど、生まれて初めての経験である。 その後、治療の最中に何度か麻酔が切れかかり、痛みが走ったのだが、鼻のほうは相変わらずしびれたままだった。
治療は一時間以上かかった。 虫が食っているところよりも、すでに治療していた歯が悪くなっていたとかで、神経を抜いたらしい。 そのために時間がかかったのだ。 終わってみると、前歯には大きな穴が空いていた。 その穴に、先生はセメントのようなものを埋めていた。 それが固まった頃に、「今日は終わりです」ということになった。
家に帰ってから、さっそく鏡で治療した歯を見て、ぼくは唖然とした。 ぼくの歯の色とはまったく違った色のセメントが埋めてあるのだ。 どう見てもおかしい。 ミルキーが前歯の所々にくっついているような感じである。 次の治療の日まで、このミルキー状態でいなければならないのだ。 それを考えると、気が重くなった。 しかし、ミルキーならまだいい。 次回この歯の治療が終わったとして、もし銀歯でも入れられたらどうしようか? 奥歯に銀はまだ許せる。 だが、前歯の銀だけは耐えられない。 ぼくの持つ男の美学に反するのだ。 しびれたままの鼻を押さえて、ぼくはそうならないことを鏡の前で、必死に祈っていた。
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