| 2004年06月16日(水) |
日露戦争から100年か |
『敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し』 『皇国の興廃この一戦にあり。各人いっそう奮励努力せよ』 前にも書いたかなあ。 まあ、何度書いてもいいや。 まさに名文である。 これほど日本人の血を沸かす言葉はないだろう。
実は昨日、宗像大社に行ってきた。 「東郷元帥の言葉が、どうして宗像大社と繋がるのか?」 と思われる方もいるかもしれない。 いや、大いに関係あるのだ。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』に、日本海海戦が火ぶたを切った時のことを、玄界灘上にある宗像大社沖津宮(沖ノ島)の神職宗像繁丸の付き人佐藤市五郎の談として紹介している。 『・・・宗像繁丸が受話器をとりあげると「バルチック艦隊が沖ノ島近海にせまった」という望楼の水兵の声がとびこみ、すぐ切られた。宗像は突ったったままみるみる血相が変わり、その場で褌一本の素っ裸になった。「市五郎、来い」というなり、海岸へ駆けおり、岩の上から海へとびこみ、潔斎をしたあと装束をつけ、社殿へかけのぼった。坂をのぼりつめたとき、西南の沖にあたって、濛気がピカッと輝いて消えた。そのあと、身のすくむような砲声がきこえた。・・・・。 宗像は神殿で懸命に祝詞をあげた。その間、砲声が矢つぎばやにひびいた。・・・』 つまり、日本海海戦は宗像大社のすぐそばで行われたのだ。
今年は日露戦争開戦100周年である。 日本海海戦は、その翌年の5月27日だったから、もしかしたら来年のその日、何か催し物が行われるかもしれないと思い、寄ってみたのだ。 しかし、そこでもらったパンフレットには、今年の行事しか書かれていなかった。 まあ、八幡様のような戦の神様ではないのだから、何もなくてもしかたがない。 だが、宗像の神様は日本海海戦を知る唯一の神様なのだから、ぜひともやってもらいたい行事ではある。
それはそうと、日露戦争からたった100年しか経ってないのか。 もうとっくに100年以上過ぎていると思っていた。 しかし、学生時代に日本史で覚えた年号は、確かに1904年だった。 ということは、年号を時代と関連づけて覚えずに、ただ暗記の対象として覚えていただけということになる。 つまり、点数とるだけの勉強をやっていたということか。 実に味気ないものである。
さて、その日露戦争で手に入れたのが、南樺太だった。 その後韓国と合併し、一等国の仲間入りを果たした。 しかし、日露戦争から40年後、対米戦に敗れたために韓国や台湾は日本の手から離れ、南樺太はソ連に戻った。 が、それだけでは終わらなかった。 千島列島を盗まれたのだ。 そのため、今の日本の領土は、日清戦争以前より、実質的には減っているのだ。 まあ、韓国や台湾に関しては、行く行くは独立させるものだったから、その期日が早まっただけの話だが、千島列島は明治以来の日本の領土である。 明治以来、ご先祖様が必至に守ってきた領土なのに、一体何と言ってお詫びしたらいいのだろう。 このままではいけない。 何とかして泥棒国家のロシアから千島列島を取り戻し、同じく泥棒国家である中国から尖閣諸島を、その子分である韓国から竹島を、死守しなければならない。 宗像の本殿に参り、その力添えをお願いしてきた。
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