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2004年06月06日(日) 念彼観音力(下)

何年かかけて、ようやく答を得た。
『念彼観音力』は、やはりこの呼吸だった。
多くの書物や自らの体験が、それを証明してくれた。
悩みに流されている時、人は我を忘れているものだ。
ということは、悩みに流されていると気づいた時は、すぐさま我に帰らなければならない。
その方法こそが、禅であり念仏であったのだ。

その方法に一つ付け足したいものがある。
それは、「視線を正す」ということである。
悩みに流されている時、人の目は泳いでいるものだ。
ということは、その悩みを消し去るには、視線を正せばいいということになる。
「そんな単純なものなのか?」という疑問を持たれる人もいると思う。
が、そんな単純なものなのだ。
般若心経でも言っているように、すべての事象は元々何もない。
ということは、悩みも元々ないものである。
そもそも悩みというものは、自分の心で作りだした事象に、自分の心が執着しているだけのものなのだから、悩みを消し去るには、その執着を断ち切るだけでいい。
元々ないものであるからこそ、視線を正す、つまり悩みに目を向けずに「今、ここ」に向ける、つまり我に帰ることで、簡単に断ち切ることができる。
ただ、これを継続出来るか否かは、本人の努力次第である。
我に帰っても、またすぐに悩みに流されてしまっては元も子もない。
常に視線を体の中心線に置き、視線を正さなければならない。

ということで、17年間の『念彼観音力』探求は、今のところ『視線を正す』というところに落ち着いている。
今後また新たな展開が起きるかもしれないが、基本的なものは変わらないだろう。
いや、変わりようがないだろう。

【追記】
今回佐世保で起きた事件だが、おそらく殺人を犯した女子児童も、あの時視線が流れていたのだろう。
もしあの時視線を正しくしていたら、その動機自体が空しく感じていたにちがいない。
そうであれば、あの事件も事前に防げただろう。
事を起こした後に、人はみな視線を正しくする。
その後に襲ってくるものは、悔悟である。
そして、無間地獄へと堕ちていく。
「あの時、こうすれば」ということを、人はその時に出来ない。
その時、視線を正すための訓練を、普段から積んでないからだ。
あの少女は通り一遍のケアを受け、ふたたびいつもの生活に戻るのだろうが、無間地獄からは逃れられないだろう。
もし逃れられるとしたら、事件のことをすっかり忘れてしまうしかない。
だが、忘れようとして忘れられるものではないし、仮に忘れたとしても、忘却の奥に潜む苦痛を常に受けることになるだろう。
日常生活をやっていても、無間地獄からは逃れることは出来ない。
無間地獄の果ては、人格の破滅しか残ってない。
ではいったいどうすればいい?

ぼくは、供養しかないと思う。
そうすることで、彼女はこの世に生を受けた意義を知り、その時初めて自分を取り戻すことになるからだ。
無間地獄は自分を取り戻す、つまり我に帰ることによって、自ずと消滅してしまうのだ。
ということは、彼女にとっての残された唯一の救いは、殺めた命を一生かけて供養していくことしかないじゃないか。
彼女は今、『念彼観音力』を必要としている。
『念彼観音力』も今、彼女を必要としている。


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