何年かかけて、ようやく答を得た。 『念彼観音力』は、やはりこの呼吸だった。 多くの書物や自らの体験が、それを証明してくれた。 悩みに流されている時、人は我を忘れているものだ。 ということは、悩みに流されていると気づいた時は、すぐさま我に帰らなければならない。 その方法こそが、禅であり念仏であったのだ。
その方法に一つ付け足したいものがある。 それは、「視線を正す」ということである。 悩みに流されている時、人の目は泳いでいるものだ。 ということは、その悩みを消し去るには、視線を正せばいいということになる。 「そんな単純なものなのか?」という疑問を持たれる人もいると思う。 が、そんな単純なものなのだ。 般若心経でも言っているように、すべての事象は元々何もない。 ということは、悩みも元々ないものである。 そもそも悩みというものは、自分の心で作りだした事象に、自分の心が執着しているだけのものなのだから、悩みを消し去るには、その執着を断ち切るだけでいい。 元々ないものであるからこそ、視線を正す、つまり悩みに目を向けずに「今、ここ」に向ける、つまり我に帰ることで、簡単に断ち切ることができる。 ただ、これを継続出来るか否かは、本人の努力次第である。 我に帰っても、またすぐに悩みに流されてしまっては元も子もない。 常に視線を体の中心線に置き、視線を正さなければならない。
ということで、17年間の『念彼観音力』探求は、今のところ『視線を正す』というところに落ち着いている。 今後また新たな展開が起きるかもしれないが、基本的なものは変わらないだろう。 いや、変わりようがないだろう。
【追記】 今回佐世保で起きた事件だが、おそらく殺人を犯した女子児童も、あの時視線が流れていたのだろう。 もしあの時視線を正しくしていたら、その動機自体が空しく感じていたにちがいない。 そうであれば、あの事件も事前に防げただろう。 事を起こした後に、人はみな視線を正しくする。 その後に襲ってくるものは、悔悟である。 そして、無間地獄へと堕ちていく。 「あの時、こうすれば」ということを、人はその時に出来ない。 その時、視線を正すための訓練を、普段から積んでないからだ。 あの少女は通り一遍のケアを受け、ふたたびいつもの生活に戻るのだろうが、無間地獄からは逃れられないだろう。 もし逃れられるとしたら、事件のことをすっかり忘れてしまうしかない。 だが、忘れようとして忘れられるものではないし、仮に忘れたとしても、忘却の奥に潜む苦痛を常に受けることになるだろう。 日常生活をやっていても、無間地獄からは逃れることは出来ない。 無間地獄の果ては、人格の破滅しか残ってない。 ではいったいどうすればいい?
ぼくは、供養しかないと思う。 そうすることで、彼女はこの世に生を受けた意義を知り、その時初めて自分を取り戻すことになるからだ。 無間地獄は自分を取り戻す、つまり我に帰ることによって、自ずと消滅してしまうのだ。 ということは、彼女にとっての残された唯一の救いは、殺めた命を一生かけて供養していくことしかないじゃないか。 彼女は今、『念彼観音力』を必要としている。 『念彼観音力』も今、彼女を必要としている。
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