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2003年10月14日(火) やんぽう通信から

ミエコ

【1】
今からおよそ20年前、ぼくはある大手の電器専門店で働いていた。
当時ぼくは、楽器売場を担当していた。
その楽器売場の左隣にレコード売場、正面にテープの売場があった。
そのテープの売場に、ちょっと変わった責任者がいた。
自己中心的で、協調性がなく、思い込みが激しく、せっかちで、神経質で、ケチな人だった。
名前をOさんという。

Oさんとぼくは家が同じ方角にあったので、出勤時にいっしょになることが多かった。
いつだったか、駅を降りてから、会社に向かっている途中、突然Oさんが大声を上げた。
「5千円札が落ちとるっ!」
そう言うなり、Oさんはすばやくそのお金を拾った。
そして、Oさんは「やったー、5千円拾った。しんちゃん、おれが見つけたんやけね。おれのやけね」、と人目もはばからず、大きな声で言った。
ぼくが「Oさん、一応警察に届けたほうがいいんやないんね」と言うと、Oさんは「何言いよるんね。おれが拾ったんやけ、おれの金たい!」と言って憚らない。
あいかわらず、「やった、やったー」と大騒ぎをしているOさんを見て、ぼくは恥ずかしくなり、Oさんと少し距離を置いて歩いた。
それでもOさんは、「いやー、しんちゃん。今日はいい日やねえ。奢ってやるけね」などと話しかけてくる。

この人からおごってもらっても、何も嬉しいことはない。
それ以前に一度、Oさんからカップのコーヒーをおごってもらったことがあるのだが、その時は「今日は奢ってやるけね」と恩着せがましく言われ、迷惑したものだった。
ところがその翌日、「しんちゃん、昨日コーヒー奢ってやったよね。今日奢って」と言ってきた。
こういういきさつがあったので、Oさんから「奢ってやる」と言われると、あまりいい気持ちはしなかった。

会社に着いてからもOさんは、「5千円拾ったちゃね」と、会う人会う人に自慢話をしていた。
誰もが「ふーん、よかったね」と軽く流していたが、舞い上がっているOさんは、そういうふうにあしらわれていることさえ、気づかなかった。

ぼくたちは、このOさんのことを、「シンケイ」と呼んでいた。
仕事中にいつもピリピリしていたからだ。
とくに万引きには神経を尖らせていた。
この人は、学生はすべて万引きだと思っていたようだ。
学生が来ると、いつもぼくのところに来て、「しんちゃん、間違いない。あいつらやるよ」と言っていた。

一度、「こらー」と大声を上げて、エスカレータ-を駆け上がって行ったことがある。
学生を追いかけて行ったのだ。
Oさんは4階まで学生を追って行き、「出せ!」と怒鳴った。
学生は「何も盗ってないですよ」と言って、上着を脱いで見せた。
が、何も出てこない。
Oさんは、土下座して「おれを殴れ!」と言ったそうである。

昭和59年3月、そのシンケイOさんの下に、一人の新入社員が配属になった。
名前を『ミエコ』と言う。
「少し太めで、素朴な感じのする女の子」
これが、ミエコの第一印象だった。


【2】
ミエコが入社して、一ヶ月ほど経った。
その頃からOさんは、「ミエコはだめだ」と頻繁に言うようになった。
ぼくが「素直でなかなかいい子やないね」と言うと、Oさんは「いや、あいつは仕事をしきらん」と言う。
他の売り場のことなので、ぼくはそれ以上口を挟まなかったが、『どうせまた、シンケイの思い込みやろう』と思っていた。

ある日のこと、ぼくが売場のカウンターの中で電話をしていた時に、「ダダッ」という音がした。
気がつくと、ミエコが横に立っている。
ちょっと様子が変だったので、早めに電話を切った。
「ミエコ、どうしたんか?」
「・・・」
「どうしたんか!?」
「シ、シンケイが・・・」
「シンケイがどうかしたんか?」
「シンケイが、シンケイが」と言うと、「フッ」と声とともに座り込んで泣き出した。
「シンケイに何ち言われたんか?」
「・・・」
ミエコは何も答えずに、ただ泣き続けるばかりである。
ここで泣かれても困るので、うちの売場の女の子に「何も聞いても答えんけ、ちょっと奥に連れて行って、事情を聴いてやって」と言って、休憩室に連れて行ってもらった。
一部始終を見ていた何人かのお客さんがいたが、みな不思議な顔をしていた。
そりゃそうだろう。
なぜなら、シンケイのことで泣いているのだから。

その後、ミエコは家に帰った。
辞めるんじゃないか、と心配したが、翌日ミエコは元気に出勤してきた。
それ以降ミエコは、Oさんの悪口をぼくたちの前で言うようになった。
逆にOさんは、ミエコのご機嫌を取るようになった。
その状態が、しばらく続いた後に、シンケイOさんは会社を辞めた。
別に、原因がミエコにあったわけではなかった。
会社が自分を辞めさせようとしている、と勝手に思い込んだためである。
「会社がそういうつもりなら、おれのほうから辞めてやる!」と言い放ち、シンケイOさんは会社に来なくなった。
誰もが、「別に会社は、シンケイに何もしてないやん」と言っていた。
上のほうも、「O君は何があったんかねえ?」と首を傾げるばかりだった。


【3】
このころからぼくは、ミエコとよく話をするようになった。
素直な子だな、と思ったが、話のところどころに「わからん」が入ってくる。
ある日、朝礼の時に、店長が業界の動向や、店の方針について話していた。
みんなメモを取ったりして、その話を聞いていた。
その時、突然ぼくをつつく者がいた。
ぼくの横にいた、ミエコである。
ミエコは小声で、「しんちゃん、わからん」と言った。
「は?」
「わからん!」
「何がわからんとか?」
「店長の話」
「わからんでもいいけ、黙って聞きよけ」
「だって、わからんもん」
「後で教えてやる」
「うん」
朝礼が終わってから、ぼくはミエコに店長の話の内容を、わかりやすく教えてやった。
しかし、それでも「わからん」だった。

いつしか、この「わからん」が気になるようになって、ある時、ぼくはミエコに聞いてみた。
「ミエコ、お前バカやろ?」
こういう言い方をされると、普通の人は当然怒るだろう。
しかし、ミエコは違った。
「会社では、バカを隠しとったのに。しんちゃん、お願いやけ私がバカなの隠しとって」である。
「隠してもバカはわかるぞ」

それから、ぼくのミエコに対する態度は、自ずと変わっていった。
ぼくはバカが好きである。
いつも好奇の目で、ミエコを見るようになったのだ。
つまり、観察の対象であった。

さて、シンケイが辞めた後、Mさんという方がテープの担当になった。
この人はおとなしい人で、前のシンケイとは正反対の性格をしていた。
ところが、たった一つであるが、シンケイとの共通点があった。
それは体臭である。
シンケイは臭かった。
それにも増して、Mさんは臭かった。
その会社は、ブレザー着用だったのだが、Mさんはいつも脇のところに汗が滲み出ていた。
鼻を突く、うどんの出汁のような臭いだった。
ミエコはみんなから、「お前は、よっぽど体臭のある人に縁があるのう」とからかわれていた。

ミエコは、Mさんとは何のトラブルも起こさなかったが、それから間もなくして、レコード売場に異動になった。
レコードの人間が辞めたため、急きょミエコが配属になったのだ。
それからミエコの本領が発揮されるのだった。


【4】
その頃、ぼくのいた楽器部門と隣のレコード部門は、元は一つの部門だった。
しかし、責任者が辞めたために、主に楽器を担当していたぼくが楽器の、またレコードを担当していたT君がレコードの、それぞれ責任者に昇格した。
しかし、その当時は人員が少なく、お互いに助け合ってやっていた。
ミエコがきたのは、ちょうどレコードの担当者が続々と辞めた時期だった。

元々一つの部門だったため、部門の会議や残務整理はいっしょにやっていた。
その残務整理の時、ぼくとT君はよくミエコで遊んでいた。
ある日、ぼくらが残務整理をしている時、ミエコが暇そうにしていた。
ぼくが「ミエコ、お前暇なんか?」と聞くと、ミエコは「だって、することないもん」と言った。
「なんかあるやろうが」
「ないもん、バーカ」
その当時は、ミエコも少し知恵をつけたのか、減らず口を叩くようになっていた。
「ふーん、することないんか。じゃあ」と言って、ぼくはT君に目配せした。
そして、二人でミエコを抱え上げ、そのままゴミ箱にお尻から突っ込んだ。
ミエコはお尻だけゴミ箱に入った状態で動けなくなった。
「暇なら、しばらくそうしとけ」
「出して」
「出たけりゃ自分で出れ」
ミエコは体を揺さぶったり、手を使ったりして、そこから脱出しようとしたが、出ることが出来なかった。
「しんたのバーカ」
「あ、誰がバカか?もう出しちゃらんけの」
「あー、ごめんなさい、ごめんなさい。もう二度と言いません」
「そうか、じゃあもう少ししたら出してやる」
「バーカ」
「お、またバカち言うたの」
するとミエコは何を思ったか、その態勢で「飛びます、飛びます」と坂上二郎の真似をした。
その後も、手足をバタバタさせて、一人で遊んでいた。

ミエコには、他の人にない一つの特徴があった。
ノドチンコが二つに割れて、逆ハート型をしていたのだ。
ぼくはそれを知ってから、来る人来る人にそれを見せた。
「おーい、ミエコ、お客さんぞ」
「あ?」
「ほら、口を開けて見せてやらんか」
そう言うと、ミエコは「あーん」と言って、口を大きく開けて見せた。
見た人は、いつも爆笑していた。
ミエコは、知らない人から笑われるのを極端に嫌うタイプだった。
「もう、二度とせんけね」
と、いつも怒って売場に戻っていった。
しかし、またそういう機会があると、ぼくはミエコを呼んだ。
性懲りもなく、ミエコはノコノコとやってきた。
そしてまた、同じことを繰り返していた。


【5】
ある時、ビデオムービーの良さを社員に体感してもらおうと、担当の係が各部門にムービーを貸し出して、作品コンテストを催したことがある。
「ムービーは家に持って帰ってもいいですから、いい映像を撮ってきてください。撮ってきた映像は全体朝礼の時に流します。一番よかった映像を撮ってきた部門には賞品を差し上げます」
おそらく、賞品という言葉に釣られたのだろう。
他の部門は熱心だった。
中には本当に家に持って帰り、わざわざ遠方まで行って、風景を録画してくる人もいた。
しかし、わが部門は無欲であった。
つまり、そんなことは、どうでもよかったのである。

いよいよ発表の前日になった。
当然何も撮ってない。
ぼくとT君は、「いよいよ明日やねえ。何を撮ろうか?」と相談していた。
その時、事務所に行っていたミエコが帰ってきた。
「ちょうどいいとこに来た。ミエコ、お前モデルになれ」
「えっ、モデル?」
「おう。お前しかおらん」

さて、発表の日になった。
「今から、レコード・楽器部門の作品を流します」
ビデオが流れたとたん、大爆笑が起こった。
スタートとともに映し出された画は、ミエコがコブラツイストをかけられている画だった。
その後、ミエコをヘッドロックしている姿、ミエコがゴミ箱に収まっている姿などが、次々と映し出された。

こんなことをされたら、普通の人は会社に来なくなるだろう。
しかし、ミエコは違った。
自分も楽しんでいたのだ。
それに、どういうわけかミエコは、ぼくやT君を慕っていた。
ある日、閉店後にぼくが隣のテレビ売場で歌番組を見ていた時の話。
ミエコがドアの向こうで手招きしている。
ぼくがそこに行ってみると、ミエコは困った顔をしていた。
「どしたんか?」
「今ねえ、トイレ入っとったんよ」
「そうか」
「そこで、ちょっときばったらねぇ・・・」
「ん?」
「・・・パンツのゴムが切れた」
「あっ!?」
「ねえ、どうしょうか?」
「どうしょうかっち言うたって・・・。替えは持ってないんか?」
「あるわけないやん」
「おれも持ってないぞ」
「当たり前やん」
「他の女子社員に聞いたか?」
「もう誰もおらんもん。ねえ、どうしょうか」

ぼくはミエコの足元を見た。
生脚だった。
「お前、ストッキング持っとるか?」
「うん」
「それなら、ストッキングはけばいいやろ」
「え?」
「そうすりゃ、パンツはずれんやないか」
「あ、そうか!! しんちゃん頭いいねえ」
ミエコから褒められても、全然嬉しくはない。
しかも、こんなことで。
しかし、ミエコはよほど感動したのだろう。
後々までこのことを言っていた。


【6】
トイレで思い出したことがある。
ミエコはよく「今日も長いウンコが出た」などと言っていた。
ぼくが「どのくらいの長さがあるんか?」と聞くと、ミエコは「このくらい」と手で示した。
どう見ても3,40cmはある。
「そんな長いウンコなら流れんやろうが」
「うん、よく詰まるよ」
「詰まって、そのままにしとるんか?」
「そんなことするわけないやん。ちゃんと流すよう」
「でも、流れんのやろうが」
「だけ、割り箸使う」
「は?」
「ウンコを引っ張り出して、切って流す」
「お前、トイレに入るのに、いちいち割り箸持って入るんか?」
「いちいち、持って行くわけないやん」
「なら、どうするんか?」
「ある所に隠しとう」
「使ったやつをか?」
「うん」
「バカか、お前は。汚かろうが!」
「いいやん、ちゃんと洗って置いとるんやけ」

暇になると、ぼくたちはよくミエコに常識テストを出していた。
「横浜県」と言ったり、九州は福岡県の中にあると言ったり、実にあやふやな知識しか持ってない。
そこで、少しでも常識を身につけてもらおうと思って、始めたのである。
ま、楽しんでいたのであるが。
「ミエコ、都道府県っち知っとるか」
「そのくらい知っとるよーだ」
「じゃあ、都はどこか?」
「簡単やん。東京」
「道は?」
「バカにして、北海道よ」
「ほう、じゃあ府は?二つあるんやけど」
「簡単やん。京都とねえ・・・」
「京都とどこか?」
「京都とねえ・・・」
「京都はわかった。あとどこか?」
「うーん・・・」
「知らんとか」
「知っとるよ。ちょっと出てこんだけ」
しばらくして、
「あ、わかった」
「そうか、どこか?」
「京都とねえ」
「京都と?」
「岐阜!」

いつも、ミエコはぼくたちの期待に応えてくれた。
1986年の11月、マニラで若王子さん誘拐事件が起きた。
中指が切断されたような写真が新聞に掲載されたり、いろいろと話題の多い事件だった。
当然、このことは会社でも話題になった。
― フィリピンは恐いところやねえ。
― 時計とかブレスレットとか奪うのに、なたで手首切断するらしいよ。
― 東南アジアや南米は、そういうところが多いらしいね。
― 治安が悪いと、聞くしね。
― この会社は海外に支店がなくてよかったねえ。
― 若王子さん、もう、殺されとるんやないやろか。
― いや、殺されてはないやろう。プロはむやみに殺さんというし。
― ビジネスやけね。
― そうそう、若王子さんは大事な商品やけね。
そんな話の中に、ミエコが入ってきた。
「ミエコ、お前若王子さん、知っとるか」
「そのくらい知っとるよ。ニュースでいつも言いよるやん」
「おう、お前賢くなったねえ」
「当たり前やん。もう大人なんやけ」
「そうか、もう20歳越えとるけのう」
「ねえ・・・」
「ん?」
「若王子さんっち、どこの国の王子様なんかねえ?」

  つづく


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