ミエコ
【1】 今からおよそ20年前、ぼくはある大手の電器専門店で働いていた。 当時ぼくは、楽器売場を担当していた。 その楽器売場の左隣にレコード売場、正面にテープの売場があった。 そのテープの売場に、ちょっと変わった責任者がいた。 自己中心的で、協調性がなく、思い込みが激しく、せっかちで、神経質で、ケチな人だった。 名前をOさんという。
Oさんとぼくは家が同じ方角にあったので、出勤時にいっしょになることが多かった。 いつだったか、駅を降りてから、会社に向かっている途中、突然Oさんが大声を上げた。 「5千円札が落ちとるっ!」 そう言うなり、Oさんはすばやくそのお金を拾った。 そして、Oさんは「やったー、5千円拾った。しんちゃん、おれが見つけたんやけね。おれのやけね」、と人目もはばからず、大きな声で言った。 ぼくが「Oさん、一応警察に届けたほうがいいんやないんね」と言うと、Oさんは「何言いよるんね。おれが拾ったんやけ、おれの金たい!」と言って憚らない。 あいかわらず、「やった、やったー」と大騒ぎをしているOさんを見て、ぼくは恥ずかしくなり、Oさんと少し距離を置いて歩いた。 それでもOさんは、「いやー、しんちゃん。今日はいい日やねえ。奢ってやるけね」などと話しかけてくる。
この人からおごってもらっても、何も嬉しいことはない。 それ以前に一度、Oさんからカップのコーヒーをおごってもらったことがあるのだが、その時は「今日は奢ってやるけね」と恩着せがましく言われ、迷惑したものだった。 ところがその翌日、「しんちゃん、昨日コーヒー奢ってやったよね。今日奢って」と言ってきた。 こういういきさつがあったので、Oさんから「奢ってやる」と言われると、あまりいい気持ちはしなかった。
会社に着いてからもOさんは、「5千円拾ったちゃね」と、会う人会う人に自慢話をしていた。 誰もが「ふーん、よかったね」と軽く流していたが、舞い上がっているOさんは、そういうふうにあしらわれていることさえ、気づかなかった。
ぼくたちは、このOさんのことを、「シンケイ」と呼んでいた。 仕事中にいつもピリピリしていたからだ。 とくに万引きには神経を尖らせていた。 この人は、学生はすべて万引きだと思っていたようだ。 学生が来ると、いつもぼくのところに来て、「しんちゃん、間違いない。あいつらやるよ」と言っていた。
一度、「こらー」と大声を上げて、エスカレータ-を駆け上がって行ったことがある。 学生を追いかけて行ったのだ。 Oさんは4階まで学生を追って行き、「出せ!」と怒鳴った。 学生は「何も盗ってないですよ」と言って、上着を脱いで見せた。 が、何も出てこない。 Oさんは、土下座して「おれを殴れ!」と言ったそうである。
昭和59年3月、そのシンケイOさんの下に、一人の新入社員が配属になった。 名前を『ミエコ』と言う。 「少し太めで、素朴な感じのする女の子」 これが、ミエコの第一印象だった。
【2】 ミエコが入社して、一ヶ月ほど経った。 その頃からOさんは、「ミエコはだめだ」と頻繁に言うようになった。 ぼくが「素直でなかなかいい子やないね」と言うと、Oさんは「いや、あいつは仕事をしきらん」と言う。 他の売り場のことなので、ぼくはそれ以上口を挟まなかったが、『どうせまた、シンケイの思い込みやろう』と思っていた。
ある日のこと、ぼくが売場のカウンターの中で電話をしていた時に、「ダダッ」という音がした。 気がつくと、ミエコが横に立っている。 ちょっと様子が変だったので、早めに電話を切った。 「ミエコ、どうしたんか?」 「・・・」 「どうしたんか!?」 「シ、シンケイが・・・」 「シンケイがどうかしたんか?」 「シンケイが、シンケイが」と言うと、「フッ」と声とともに座り込んで泣き出した。 「シンケイに何ち言われたんか?」 「・・・」 ミエコは何も答えずに、ただ泣き続けるばかりである。 ここで泣かれても困るので、うちの売場の女の子に「何も聞いても答えんけ、ちょっと奥に連れて行って、事情を聴いてやって」と言って、休憩室に連れて行ってもらった。 一部始終を見ていた何人かのお客さんがいたが、みな不思議な顔をしていた。 そりゃそうだろう。 なぜなら、シンケイのことで泣いているのだから。
その後、ミエコは家に帰った。 辞めるんじゃないか、と心配したが、翌日ミエコは元気に出勤してきた。 それ以降ミエコは、Oさんの悪口をぼくたちの前で言うようになった。 逆にOさんは、ミエコのご機嫌を取るようになった。 その状態が、しばらく続いた後に、シンケイOさんは会社を辞めた。 別に、原因がミエコにあったわけではなかった。 会社が自分を辞めさせようとしている、と勝手に思い込んだためである。 「会社がそういうつもりなら、おれのほうから辞めてやる!」と言い放ち、シンケイOさんは会社に来なくなった。 誰もが、「別に会社は、シンケイに何もしてないやん」と言っていた。 上のほうも、「O君は何があったんかねえ?」と首を傾げるばかりだった。
【3】 このころからぼくは、ミエコとよく話をするようになった。 素直な子だな、と思ったが、話のところどころに「わからん」が入ってくる。 ある日、朝礼の時に、店長が業界の動向や、店の方針について話していた。 みんなメモを取ったりして、その話を聞いていた。 その時、突然ぼくをつつく者がいた。 ぼくの横にいた、ミエコである。 ミエコは小声で、「しんちゃん、わからん」と言った。 「は?」 「わからん!」 「何がわからんとか?」 「店長の話」 「わからんでもいいけ、黙って聞きよけ」 「だって、わからんもん」 「後で教えてやる」 「うん」 朝礼が終わってから、ぼくはミエコに店長の話の内容を、わかりやすく教えてやった。 しかし、それでも「わからん」だった。
いつしか、この「わからん」が気になるようになって、ある時、ぼくはミエコに聞いてみた。 「ミエコ、お前バカやろ?」 こういう言い方をされると、普通の人は当然怒るだろう。 しかし、ミエコは違った。 「会社では、バカを隠しとったのに。しんちゃん、お願いやけ私がバカなの隠しとって」である。 「隠してもバカはわかるぞ」
それから、ぼくのミエコに対する態度は、自ずと変わっていった。 ぼくはバカが好きである。 いつも好奇の目で、ミエコを見るようになったのだ。 つまり、観察の対象であった。
さて、シンケイが辞めた後、Mさんという方がテープの担当になった。 この人はおとなしい人で、前のシンケイとは正反対の性格をしていた。 ところが、たった一つであるが、シンケイとの共通点があった。 それは体臭である。 シンケイは臭かった。 それにも増して、Mさんは臭かった。 その会社は、ブレザー着用だったのだが、Mさんはいつも脇のところに汗が滲み出ていた。 鼻を突く、うどんの出汁のような臭いだった。 ミエコはみんなから、「お前は、よっぽど体臭のある人に縁があるのう」とからかわれていた。
ミエコは、Mさんとは何のトラブルも起こさなかったが、それから間もなくして、レコード売場に異動になった。 レコードの人間が辞めたため、急きょミエコが配属になったのだ。 それからミエコの本領が発揮されるのだった。
【4】 その頃、ぼくのいた楽器部門と隣のレコード部門は、元は一つの部門だった。 しかし、責任者が辞めたために、主に楽器を担当していたぼくが楽器の、またレコードを担当していたT君がレコードの、それぞれ責任者に昇格した。 しかし、その当時は人員が少なく、お互いに助け合ってやっていた。 ミエコがきたのは、ちょうどレコードの担当者が続々と辞めた時期だった。
元々一つの部門だったため、部門の会議や残務整理はいっしょにやっていた。 その残務整理の時、ぼくとT君はよくミエコで遊んでいた。 ある日、ぼくらが残務整理をしている時、ミエコが暇そうにしていた。 ぼくが「ミエコ、お前暇なんか?」と聞くと、ミエコは「だって、することないもん」と言った。 「なんかあるやろうが」 「ないもん、バーカ」 その当時は、ミエコも少し知恵をつけたのか、減らず口を叩くようになっていた。 「ふーん、することないんか。じゃあ」と言って、ぼくはT君に目配せした。 そして、二人でミエコを抱え上げ、そのままゴミ箱にお尻から突っ込んだ。 ミエコはお尻だけゴミ箱に入った状態で動けなくなった。 「暇なら、しばらくそうしとけ」 「出して」 「出たけりゃ自分で出れ」 ミエコは体を揺さぶったり、手を使ったりして、そこから脱出しようとしたが、出ることが出来なかった。 「しんたのバーカ」 「あ、誰がバカか?もう出しちゃらんけの」 「あー、ごめんなさい、ごめんなさい。もう二度と言いません」 「そうか、じゃあもう少ししたら出してやる」 「バーカ」 「お、またバカち言うたの」 するとミエコは何を思ったか、その態勢で「飛びます、飛びます」と坂上二郎の真似をした。 その後も、手足をバタバタさせて、一人で遊んでいた。
ミエコには、他の人にない一つの特徴があった。 ノドチンコが二つに割れて、逆ハート型をしていたのだ。 ぼくはそれを知ってから、来る人来る人にそれを見せた。 「おーい、ミエコ、お客さんぞ」 「あ?」 「ほら、口を開けて見せてやらんか」 そう言うと、ミエコは「あーん」と言って、口を大きく開けて見せた。 見た人は、いつも爆笑していた。 ミエコは、知らない人から笑われるのを極端に嫌うタイプだった。 「もう、二度とせんけね」 と、いつも怒って売場に戻っていった。 しかし、またそういう機会があると、ぼくはミエコを呼んだ。 性懲りもなく、ミエコはノコノコとやってきた。 そしてまた、同じことを繰り返していた。
【5】 ある時、ビデオムービーの良さを社員に体感してもらおうと、担当の係が各部門にムービーを貸し出して、作品コンテストを催したことがある。 「ムービーは家に持って帰ってもいいですから、いい映像を撮ってきてください。撮ってきた映像は全体朝礼の時に流します。一番よかった映像を撮ってきた部門には賞品を差し上げます」 おそらく、賞品という言葉に釣られたのだろう。 他の部門は熱心だった。 中には本当に家に持って帰り、わざわざ遠方まで行って、風景を録画してくる人もいた。 しかし、わが部門は無欲であった。 つまり、そんなことは、どうでもよかったのである。
いよいよ発表の前日になった。 当然何も撮ってない。 ぼくとT君は、「いよいよ明日やねえ。何を撮ろうか?」と相談していた。 その時、事務所に行っていたミエコが帰ってきた。 「ちょうどいいとこに来た。ミエコ、お前モデルになれ」 「えっ、モデル?」 「おう。お前しかおらん」
さて、発表の日になった。 「今から、レコード・楽器部門の作品を流します」 ビデオが流れたとたん、大爆笑が起こった。 スタートとともに映し出された画は、ミエコがコブラツイストをかけられている画だった。 その後、ミエコをヘッドロックしている姿、ミエコがゴミ箱に収まっている姿などが、次々と映し出された。
こんなことをされたら、普通の人は会社に来なくなるだろう。 しかし、ミエコは違った。 自分も楽しんでいたのだ。 それに、どういうわけかミエコは、ぼくやT君を慕っていた。 ある日、閉店後にぼくが隣のテレビ売場で歌番組を見ていた時の話。 ミエコがドアの向こうで手招きしている。 ぼくがそこに行ってみると、ミエコは困った顔をしていた。 「どしたんか?」 「今ねえ、トイレ入っとったんよ」 「そうか」 「そこで、ちょっときばったらねぇ・・・」 「ん?」 「・・・パンツのゴムが切れた」 「あっ!?」 「ねえ、どうしょうか?」 「どうしょうかっち言うたって・・・。替えは持ってないんか?」 「あるわけないやん」 「おれも持ってないぞ」 「当たり前やん」 「他の女子社員に聞いたか?」 「もう誰もおらんもん。ねえ、どうしょうか」
ぼくはミエコの足元を見た。 生脚だった。 「お前、ストッキング持っとるか?」 「うん」 「それなら、ストッキングはけばいいやろ」 「え?」 「そうすりゃ、パンツはずれんやないか」 「あ、そうか!! しんちゃん頭いいねえ」 ミエコから褒められても、全然嬉しくはない。 しかも、こんなことで。 しかし、ミエコはよほど感動したのだろう。 後々までこのことを言っていた。
【6】 トイレで思い出したことがある。 ミエコはよく「今日も長いウンコが出た」などと言っていた。 ぼくが「どのくらいの長さがあるんか?」と聞くと、ミエコは「このくらい」と手で示した。 どう見ても3,40cmはある。 「そんな長いウンコなら流れんやろうが」 「うん、よく詰まるよ」 「詰まって、そのままにしとるんか?」 「そんなことするわけないやん。ちゃんと流すよう」 「でも、流れんのやろうが」 「だけ、割り箸使う」 「は?」 「ウンコを引っ張り出して、切って流す」 「お前、トイレに入るのに、いちいち割り箸持って入るんか?」 「いちいち、持って行くわけないやん」 「なら、どうするんか?」 「ある所に隠しとう」 「使ったやつをか?」 「うん」 「バカか、お前は。汚かろうが!」 「いいやん、ちゃんと洗って置いとるんやけ」
暇になると、ぼくたちはよくミエコに常識テストを出していた。 「横浜県」と言ったり、九州は福岡県の中にあると言ったり、実にあやふやな知識しか持ってない。 そこで、少しでも常識を身につけてもらおうと思って、始めたのである。 ま、楽しんでいたのであるが。 「ミエコ、都道府県っち知っとるか」 「そのくらい知っとるよーだ」 「じゃあ、都はどこか?」 「簡単やん。東京」 「道は?」 「バカにして、北海道よ」 「ほう、じゃあ府は?二つあるんやけど」 「簡単やん。京都とねえ・・・」 「京都とどこか?」 「京都とねえ・・・」 「京都はわかった。あとどこか?」 「うーん・・・」 「知らんとか」 「知っとるよ。ちょっと出てこんだけ」 しばらくして、 「あ、わかった」 「そうか、どこか?」 「京都とねえ」 「京都と?」 「岐阜!」
いつも、ミエコはぼくたちの期待に応えてくれた。 1986年の11月、マニラで若王子さん誘拐事件が起きた。 中指が切断されたような写真が新聞に掲載されたり、いろいろと話題の多い事件だった。 当然、このことは会社でも話題になった。 ― フィリピンは恐いところやねえ。 ― 時計とかブレスレットとか奪うのに、なたで手首切断するらしいよ。 ― 東南アジアや南米は、そういうところが多いらしいね。 ― 治安が悪いと、聞くしね。 ― この会社は海外に支店がなくてよかったねえ。 ― 若王子さん、もう、殺されとるんやないやろか。 ― いや、殺されてはないやろう。プロはむやみに殺さんというし。 ― ビジネスやけね。 ― そうそう、若王子さんは大事な商品やけね。 そんな話の中に、ミエコが入ってきた。 「ミエコ、お前若王子さん、知っとるか」 「そのくらい知っとるよ。ニュースでいつも言いよるやん」 「おう、お前賢くなったねえ」 「当たり前やん。もう大人なんやけ」 「そうか、もう20歳越えとるけのう」 「ねえ・・・」 「ん?」 「若王子さんっち、どこの国の王子様なんかねえ?」
つづく
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