いよいよ12月である。 今日、笑点の大喜利が始まる前に、外にタバコを吸いに行った。 あたりは薄暗くなっており、西の空にわずかながら残っていた夕焼けに、季節を感じた。 あと3週間もすれば、その時間帯は確実に夜になるだろう。
そういえば、10年ほど前に、会津喜多方に旅行に行ったことがある。 そこで2泊したのだが、2日目に山形県との県境にある温泉に泊まった。 季節は今頃で、その日は日曜日だった。 旅館に着いた時、ちょうど笑点をやっていたのだが、あたりは夜。 というよりも、もはや深夜だった。 裸電球の街灯が、初冬の寂しさを奏でていた。
その旅行では、喜多方に行く前に、東京で何泊かしている。 その時、東京の夜は北九州より少し早いな、くらいの感覚しかなかった。 しかし、さすがは東北である。 時差というものを、まじまじと感じたものだった。
東京に出る以前、つまり10代までは、午後4時が夕方というのがピンとこなかった。 北九州で午後4時といえば、まだ昼間である。 夏場などは、5時台もほとんど昼間状態である。 東京に出てみて、最初に思ったことは、『なるほど午後4時は夕方である』だった。 北九州の午後5時の風景を、午後4時に見たのだ。 空には、もう夕焼けが出ている。 カラスの群れが、夕方を演出する。 街灯が点き始める。 道行く車は、スモールランプを点灯している。 街が一気にあわただしくなる。 夕方のにおいが立ちこめる。
東京の夕方の風景で、一番好きだったのは中野だった。 駅前の雰囲気に何か郷愁めいたものを感じていた。
「街の灯」
ほんのひとときの黄昏が 今日のため息をつく 病み疲れたカラスたちが 今日も帰って行く 昔描いた空は消えはてて さて帰る家はあったんだろうか 琥珀色の時の中で 街の灯は浮かぶ
明るい日差しの中でも 笑わないカラスが すすけた街の灯を 見つめては笑う 昔描いた空は消えはてて さて淋しくはないんだろうか 誰も見てない切なさに 街の灯は浮かぶ
この詩は中野の風景である。 高田馬場に住んでいたので、中野は近かった。 そのため、中野にはよく行っていた。 別に用事はなかった。 ただ、夕方を満喫したかっただけなのだ。
夕焼けで思い出すのが、長崎平戸の生月島である。 何でもそこは、日本で一番日の入りの遅い所らしい。 行ったのは5月だったから、かなり遅い時間まで日の入りを待った。 西の海に沈む夕日が、海原を照らし、一筋の光の道を作っていた。 北九州の海は北に位置しているため、海に日が沈む風景を見ることは出来ない。 海に日が沈むのを見たのは、おそらくこれが初めてだったと思う。
生月島を出たのは、8時をすぎていた。 日帰りだったので、島を出てから寄り道をせずに北九州に向かったのだが、ぼくの住む北九州は、九州の東の端にあり、平戸は西の端にある。 そのため、車だとかなり時間がかかる。。 おかげで、家に帰り着いたのは、翌日になっていた。
そうそう、夕日で思い出したことがある。 ぼくのエッセイに『トキコさんは48歳』というのがあるが、そのトキコさんの話である。 前に、日帰りで鹿児島まで、仲間とドライブをしたことがある。 その時、トキコさんもいっしょだった。 帰りの車の中。 午後7時をすぎていただろうか。 突然、トキコさんが「まあ、きれいな夕日」と言った。 地図を見てもらったらわかるが、鹿児島から福岡に戻るには北上しなければならない。 当然、右が東で、左が西である。 その言葉につられて、車に乗っていた全員が左側を見た。 真っ暗である。 「どこにも、夕日なんか出てないやん」と言うと、トキコさんは「ちゃんと、出とるやん」と言う。 「どこに?」 「ほらそこ」 と言って、トキコさんは右側を指さした。 月だった。 トキコさんは、今でもこの時のことを言われている。
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