「親友」
君と遊んでいたのは、いつの頃からだっただろうか。 時々けんかもしたけど、 ぼくらは仲のいい友だちだった。 小学校でのいたずらも、 廊下に立たされた時も、 いつもぼくらはいっしょだった。 奇妙なノリの中で ぼくらはつき合っていた。 奇妙なノリの中で ぼくらは目立っていた。
中学の頃だったろうか。 ぼくは君と話すことに、 なぜか心苦しさを覚えた。 おそらく君もそうだったのだろう。 その時から君とのつき合いを 空々しく感じていった。 いっしょに学校に行ったことも、 同じクラスになって、抱き合って喜んだことも、 おそらく『親友』という言葉がさせた 行為だったのだろう。
その後ぼくらは別々の道をたどった。 つき合いも以前ほどではなくなり、 『親友』という言葉の魔力も次第に失せていった。 ことあるごとに『親友』を強いる君に 嫌悪感を抱いていたぼくだったが、 いつしかそんな感情も薄らいでいった。 とりあえず今は、君との縁も消滅している。
上の詩の「君」は決してぼくの「親友」ではない。 彼がぼくを「親友」と呼んだのは、つき合いが長かったからである。 つき合いと言っても、小さい頃から近くに住んでいたので、いっしょに遊んでいただけの仲でしかない。 中学になり、高校になり、彼がぼくの力になってくれたとか、ぼくが彼の力になってあげたということは一度もなかった。 また、膝を交えて語り合ったこともない。 いっしょに遊ばなくなった彼は、ぼくにとっては「かつて友だちだった人」にすぎない。 ぼくにとってそれだけの存在の人間なのに、彼は、ぼくが昼寝をしている時、勝手に家に上がり込んできて、たたき起こしたり、誰も許可してないのに、勝手にぼくの本を持ち出したりした。 そのことを追求すると、「いいやん、親友なんやけ」と言う。 人の家に勝手に上がり込むことや、人の本を勝手に持ち出すことは、親友のすることではない。
ぼくは小中学校のつき合いより、高校時代のつき合いの方を大切にしている。 別に意識してそうしているのではなく、自ずと高校のつき合いのほうに行ってしまうのだ。 ぼくは、43年間同じ場所に住んでいるが、成人して以降は、この場所で小中学時代の友だちに会ったことがない。 近くに大型のショッピングセンターがあるので、そこで会ってもよさそうなものだが、それもない。 いったいあの頃、ここに住んでいた人たちは、どこに行ってしまったのだろう。 小中学校の同窓会のお誘いがあるわけでもない。 というより、そういうものの企画すらない。 「どうしてますか?」というような電話もない。 個人的に飲みに行くようなこともない。 幼なじみの、その後の動向も知らない。 知っているのは、死んだ奴のことだけである。 それも風の噂で、である。
現在ぼくは、先の「君」に限らず、小中学校時代の友だちだった人たちとは疎遠になっている。 しかし、これはぼくだけに限ったことではない。 人の話を聞くと、皆そういうものらしい。 やはり、誰もが異口同音に、小中学校時代よりも、高校時代のつき合いの方が大切だと言う。 高校の同窓会にはよく行くが、中学校の同窓会には行ったことがないと言う人が多い。 幼い頃いっしょに遊んだ友だちよりも、多感な時期に語り合った友だちのほうが、よりつき合いやすいのだろう。
今後、小中学校の同窓会があれば行ってみようとは思っている。 が、特に会いたい人などはいない。
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