1974年、ぼくが高校2年の頃に、クラスで「幻想の1978」という言葉が流行ったことがある。 1978年に何かが起こりそうな気がしていたのである。 ぼくたちは、いつもそれを話題にしていた。 当時流行っていた人類滅亡にあやかったわけではないが、ぼくたちは真剣にそれを議論していた。 誰かがポツンと「幻想の1978」と口走り、その響きがよかったので流行った言葉であり、別に深い意味があるわけではなかった。
その頃、ぼくたちは1978年を追い続けて、一日一日を精一杯生きていた。 ある者は、期待に胸を膨らませて1978年を語った。 ある者は、悲観した口調で1978年を語った。 ある者は、「このまま歳をとるだけだ」と言った。 クラスの中の誰が、この年を言い当てただろう?
ぼくにとっての1978年。 あまりに、前年の1977年が辛かった。 就学するでもなく、仕事をするでもなく、ただ無為に数ヶ月を過ごした。 その頃友人たちは、みな、その時の自分を持っていた。 その時自分を見失っていたのは、おそらくぼくだけだったに違いない。 暗い暗い毎日だった。 そんな内にこもった日々が1977年だったが、ようやく年末あたりから、外部と接触を持ち始めた。
明けて1978年、幻想の年の幕開けの日、ぼくは大声を張り上げて、歌をうたっていた。 酒を飲んでは、力の限り歌っていた。 まだ、酒の飲み方もろくに知らなかった。 人の迷惑も顧みずに、とにかく歌っていた。
キャンディーズが解散したのが、その年の4月だった。 気がつくと、ぼくは東京にいた。 ギター一本だけ持っての旅だった。 年の暮れ、外部に接触を持ち始めたぼくは、極端にも、まったく知らない人の渦の中にいた。 それが良かったのか、悪かったのか? とりあえず、ぼくは一つの節目を、ぼくなりの極端さで乗り越えていた。
街には「悲しい願い」が流れていた。 「東京ララバイ」が日々を潤していた。 銭湯通いの毎日が続いた。 テレビはなかった。 ラジオだけの生活だった。 21の歳だった。 すべてが初めての経験だった。 楽しくもあった。 悲しくもあった。 そんな日々は活字にもなった。
その夏、郷里では深刻な水不足に悩んでいた。 ぼくは、いつも情報を求めていた。 いつしかぼくには、福岡が切れないものになっていた。
酒も強くなった。 飲み方もうまくなった。 金遣いも荒くなった。 貧乏も充分経験した。 二千円で、一ヶ月を過ごしたこともあった。 確かに強くなった。 個性も確立しつつあった。 自分なりの生き方を探していた時期でもあった。 歌も相変わらず続いていた。 それから始まることを暗示する年でもあった。 決して幻想ではなかった。 土臭い、人間らしい日々の連続であった。
ぼくたちは来るべき日を追い求めて 一日一日を精一杯に生きている。 ある者は、その日がいつであるかを探している。 ある者は、その日の自分を想像している。 ある者は、日々の延長上にその日を置いている。 何が正しいのか 彼らは、彼らの価値観でそれを知るだろう。 そして、その日もまた、過去の一部でしかないことを 彼らは、彼らの人生の中で知ることだろう。
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