人生はやり直しがきかないという。 しかし、ぼくの考えはちょっと違う。 人生はやり直しがきく。 というより、人は何度も同じ人生をたどるのだ。
人は死ぬと、ある程度の時間を置いて、またこの世に生まれ変わると言う。 いわゆる輪廻転生説である。 この輪廻転生でいう、生まれ変わり先は、あくまでも未来である。 輪廻転生説では、前世の記憶はすべて消されると説く。 しかし、そういうことをして何になるというのだろうか。 もし、未来に生まれるとしたら、前世の体験や経験は全然生きてこないじゃないか。 すべて0からのスタートで、何の進歩があると言うのだろうか。 解脱しない限り永遠にこの輪廻転生を繰り返すことになると言われているが、はたして、過去の体験や経験が全然生かされない人生に、何の発展があると言うのだ。 これは絶対おかしなことである。 というより、神や仏は、生きとし生けるものをいじめているとしか思えない。
では、もしもその生まれ変わり先が未来ではなく、今、つまり今生だったらどうだろうか。 これなら大きな発展が望めるだろう。 何度も何度も、同じ人生をやり直すわけだから、いくら記憶を消されたとしても、何らかの形で残っているものである。。 例えば、「いつだったか、この風景を見たことがある」とか、「以前、この光景に出くわしたことがある」とかいうデジャブは、そういうことの現われだろう。 よく「何か悪い予感がしたので、飛行機を一便遅らせた。おかげであの事故に遭わずにすんだ」などという話をよく聞くが、その「予感」と言うものも前世の記憶の領域に入る。 前世での失敗を、予感という形でもって修正しているわけである。
この論法からすれば、予言者というのはペテン師ということになる。 なぜなら、彼らは普通の人が読めない未来を読んでいるのではなく、前世で経験したことや見聞きしたことを語っているに過ぎないからだ。 その前世の記憶を、「予言しました」というふうに世間に触れ回っているのだから、ペテン師と呼ばれてもしかたないだろう。 彼らは決して「予言者」ではない。 が、「妙に記憶力のいい人」とは言える。
そういえば、姪がまだ小さかった頃、よくおかしなことを言っていた。 3歳の時だったか、通りがかりの中学生を見て、急に「私が英語の先生だった頃ねぇ、あの人生徒やったんよ」と言い出した。 そして、見知らぬその中学生を「○○君」と呼んでいた。 それを聞いて、ぼくたちは唖然としていたが、よくよく考えるとこれも前世の記憶なのかもしれない。 ずっと後に、その話を姪にしてみると、「えー、私そんなこと言うたとー」と言って笑っていた。 姪は今大学生だが、そのうち英語の先生になるのかもしれない。
さて、この仮説はぼくが頭で考えたものではない。 ある日忽然とひらめいたのだ。 最初は面白がってこの仮説で遊んでいたのだが、最近はかなり真剣に受け止めるようになってきた。 次章で失敗しないように、今から準備しておかないと、と思うようになった。 そのために、今までの人生の節目節目に、チェックポイントを設けている。 「そういえば、あんなことがあったが、あの場面、今度はこう選択してみよう」とか、「あの時ああいうことを言ってしまったが、あれは失敗だった。次はこう言ってみよう」などと、その時期の記憶にチェックを入れている。 こうしておけば、次の人生はうまくいくはずである。 いよいよ来世、ペテン師しろげしんたの活躍が始まる。
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