頑張る40代!plus

2002年03月16日(土) 日の丸

ぼくは朝起きると必ず外を見る。
いつも空を見上げ、正面にそびえる皿倉山を見、それから家の前にある幼稚園を見下ろす。
今日は朝から天気が良かった。
山には雲ひとつかかってなかった。
目を下におろし、幼稚園を見た。
「あれ?」
ぼくは慌てて携帯電話で日にちを確認した。
紛れもなく本日は3月16日である。
「さて、今日は何の日だったろうか?」
いつもと違う風景が目の前にあった。

いつもと違う風景、それは幼稚園の掲揚台に日の丸がはためいていたのだ。
「祭日だったかなあ?しかし、春分の日はまだ先だし」
ぼくはもう一度日にちを確認した。
『2002年3月16日土曜日』
新聞にもそう書いてある。
「3月16日、3月16日、・・・」と口の中で何度も繰り返した。
「・・・そうか!」
ぼくははたと気がついた。
「そうか、今日は『きみにあえてうれしい』の日か」
そう、今日は卒園式なのである。
その幼稚園は、卒園式の後のお別れの時に、いつもこの『きみにあえてうれしい』をかけている。
「それで日の丸か」と一人で納得していた。

実はぼくは日の丸を見ると、身が引き締まる思いがするのだ。
中学の頃、東郷平八郎に憧れていた時期があった。
部屋に東郷の肖像画を飾り、その横に日の丸を掲げていた。
そして、朝と晩にいつも敬礼をしていたのだ。
おそらくそういうものが、今でもぼくの中に残っているのだろう。

こういうふうに書くと、何か右翼的な愛国少年のように思われるかもしれないが、その頃のぼくの愛読書は「毛沢東語録」で、行動とは逆に口ではいつも左翼的なことを言っていた。
その後もその傾向が見られ、高校の頃は「お前は赤か」と先生に言われたこともある。
しかしあの時代の風潮として、若者は多かれ少なかれ左翼的なことに憧れていたような気がする。
体制を批判することが、何かいいことのような気がしていたものである。
革新という言葉に魅力を感じていたし、社会党や共産党が天下を取ればいいとさえ思っていた。
また、当時『革新県』と言われていた福岡県に誇りを感じていたものである。
たまたまぼくは歴史が好きだったので、『革新』のうそや矛盾を知ってしまい、わりと早い時期にその熱から醒めていった。

先日、北九州市の教育委員会に、「卒業式などで、『日の丸・君が代』を強制しないでほしい」という文書を突きつけた市民団体がいたそうである。
まだやっている。
この人たちは、『日の丸・君が代』に、何か心の傷でも持っているのだろうか?
それを戦争に結びつけるのなら、それこそ認識不足である。
戦争はあくまでも政治の問題であって、『日の丸・君が代』の問題ではない。
彼らは、『日の丸・君が代』が悪いことをしたと勝手に思っているだけである。
それでも『日の丸・君が代』の問題と言い張るのなら、彼らの祖先が『日の丸・君が代』を使って、何か悪いことをやっていたと思わざるをえない。
おそらく、戦争中に『日の丸掲げて強盗する会』や『君が代歌って強姦する会』という市民団体でも組織していたのではないだろうか?

この問題は『革新』の人たちが、憲法の盲点を突いて言い出した、いわゆる体制への外交カードなのだ。
つまり『日の丸・君が代』はただ利用されているだけのもので、それ自体が問題なのではないのだ。
本当の意図はもっと他の場所にあるのである。
突き詰めて考えると、後に軍部の暴走を招いた、昭和初期の『統帥権干犯問題』と同じ発想である。
こんな人たちの言いなりになっていると、また戦争に走ってしまう。

その木を見て森を見ない団体の人たちは、「左翼的なことがいいこと」と思われていた時代の微熱から、きっとまだ醒めないでいるのだろう。
それこそ『生涯青春』を地で行く、おめでたい人たちである。


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