半年の通信教育が始まった。 テキストとレコードが送られてきた。 しかし、テキストを見てちょっと失望した。 とても人前で演奏できるような曲ではないのだ。 「ドナドナ」「好きにならずにいられない」はともかく、「ハッシュ・リトル・ベイビー」や「ポートランド・タウン」なんて誰も知らないだろうし、人前でやっても受けないだろう。 しかも、英語の曲ばかりである。 エレック系の拓郎や泉谷の曲をやってくれるものとばかり思っていたのだ。 まあ、拓郎の曲は「イメージの詩」が入っていたが、あくまでもデモで、課題曲ではなかった。 それにこの曲は簡単だったので、すでにマスターしていた。
しかし、乗りかかった船だ。 ぼくは半年間、みっちりとこの通信講座で勉強した。 あやふやだったスリーフィンガーも、何とか形になってきた。 ハンマーリングオン・チョーキング・ミュートなどのテクニックも、この講座でおぼえた。 一番の収穫は、チェット・アトキンス奏法を覚えたことだ。 これは、ラグタイム奏法と似た弾き方で、親指でベース音を、人差し指でメロディーを奏でる。 右指はもちろん、左指も頻繁に動かさなければならない。 課題曲の「フレイト・トレイン」をマスターした時の喜びは大きかった。 歌の伴奏として始めたギターだったが、初めてソロを弾けたのだ。 その後、「サンフランシスコ・ベイ・ブルース」など、一連のチェットアトキンス奏法をマスターしていった。 チェットアトキンス奏法を一応マスターすると、何か自分でもオリジナルのソロを作ってみたくなり、拙いながら3曲ばかり作ってみた。 今ではもう弾けないが、当時はよく友人の前で弾いたものだった。 「よく左指が動くねえ」と言われるのが嬉しくて、調子に乗ってやったものだった。
そういえば、ギターソロで思い出したが、ぼくは「禁じられた遊び」が弾けない。 この講座でも課題曲として取り上げられていたのだが、どういうわけか練習する気になれなかった。 なぜ練習しなかったのかはよく覚えてないが、おそらく「これはクラシックやないか」と思い、意識的に弾くことを避けたのだろう。 なぜなら、その頃のぼくの頭の中には、「フォークギター」しかなかったのだから。
半年が経ち、この講座を卒業したぼくは、かなりギターの腕が上達していた。 レコードから多くの曲をコピーしたが、ほとんどがこの講座でやったことの応用だったので、楽にコピーができた。 今まで聞き取れなかった細かい音も、よく聞こえるようになった。 音楽というのは耳でするものとよく言われるが、この時このことを理解した。
3年になり、いよいよぼくはギターにのめりこんでいくことになる。 ギターの技術が向上するにつれ、作詞や作曲のほうも本格的になっていった。 オリジナル第一弾を作ったのは、高校1年の時、ちょうどギターを始めた頃である。 「怪獣になって、空を飛びたいなー♪」というアホな歌だった。 今となっては、こんな歌恥ずかしくて、とても歌えん。 その後、2年の終わりごろまでに20曲以上作った。 2年の春休みのこと、昼寝をしていると、突然メロディが降ってきた。 ぼくは飛び起きて、そのメロディをカセットに吹き込んだ。 1週間後、そのメロディは「春一番」という歌になった。 もちろんキャンディーズの歌とは違うが、この歌は今でも好きで、よく口ずさんでいる。 この歌が、通信講座で学んだギターの奏法を使った最初の曲になった。 この曲で作曲のコツを掴んだぼくは、その後200曲以上の曲を作ることになる。
しかし、このことがその後の人生を大きく狂わせた。 よく人から言われた「出来もしない夢」を見ることになったのだ。 「出来もしない夢」、つまり「プロのミュージシャンになる夢」は、この「春一番」を作ったことに始まる。 この夢を追いかけて長い浪人生活を強いられ、この夢を追いかけて東京に出、この夢を追いかけて何本もギターを買い、この夢を追いかけて今回の被害にあった。 ということで、この夢の呪縛は、いまだに続いていた、と言ってもいいだろう。
おわり
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