| 2001年10月20日(土) |
ちょっと真面目な話を書きました |
日本人は、生まれてからすべてが宗教である。 生活すべてが宗教である。 だから、無宗教だと思ってしまう。 それは、日常生活とかけ離れた所に宗教があると思っているからだ。 特別なことをすることが、宗教だと思っているからだ。 安産のお守り・お七夜・七五三・成人式・安全祈願・正月・御来光・初詣・お盆・お彼岸・墓参り、これは宗教じゃないのだろうか? さらに、あらゆる日本的なものにつきまとう「わび・さび・かるみ」、これは宗教じゃないのだろうか? 茶道・華道・俳句から将棋・囲碁、はてはパチンコまで、いつも日本人は「わび・さび・かるみ」のプロセスを踏みたがる。 だけど、こういうことがあまりに自然で、生活に密着していることなので、宗教だとわからない。 つけ加えれば、箸の上げ下げや、お辞儀の仕方までもが宗教である。
キリスト教・イスラム教・仏教・ヒンズー教など、どこかの団体に所属することが宗教なんだろうか? 人を勧誘することが宗教なんだろうか? 人間からかけ離れた、超人になることが宗教なんだろうか? いかに人間らしく生きるか、いかに人に迷惑をかけずに生きていけるか、そういうことが宗教の第一義ではないのだろうか。 目に見えない心のよりどころを求めるより、もっと身近な「人」を信じることのほうが大切じゃないのだろうか。 「遠くの親戚より、近くの他人」というじゃないか。
いろいろな宗教体験を得て、そのひとつに留まることをせず、日本人は日本人独特の「人の宗教」を確立した。 しかし、外国の人たちは「はじめに神ありき」だから、「はじめに人ありき」の日本人が理解できない。 滑稽だとさえ思っている。 しかし、日本人から見れば外国人こそ滑稽なのだ。
聖徳太子は、「神とか仏とか言う前に、人の和を大切にせよ」と十七条憲法の中で言っている。 それを子孫は忠実に守っている。 それでいいじゃないか。
ここ数日、感じることがあったので書いてみました。
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