追いかけられてる。 最近そう思う。しかも、それが日常生活じゃなくて『書く』と言う事に感じているのだから、性質が悪い。 今まで『書きたいときに・書きたいだけ』書いてきた自分にとって、『毎週の更新のために』話を書いていくという行為が少し苦痛になってきた。 長編もどきを書いている時はいい。自分が何も考えなくたって、勝手にキャラが動いていったりする。でも、そのいわゆる『書き貯め』分がなくなったとき、いったい自分はどうすればいいのか軽いパニックに陥る。 日常生活にそうそうビッグな問題が起きるわけではない。自分的にでかいことも、他人から見れば虫けら以下の些細な事だったりする。それをいかに自分と同じ視線にまで読み手を引きずり込むかで、話の良し悪しと言うのはきっと決まってしまうのだろう。 日常生活と言えば、実は・・・と今更言う必要もないかと思うけど、短編を書くのが苦手だ。短編と言うのは、日常生活の些細な一片を切りぬいたものが多い。書けなくなったのはちょうど修二が死んだ頃と一致する。 短編を書くと言う事は、日常に注視しながら、毎日を興味深く生きていくと言う事だと思う。あたしは毎日を結構なあなあに生活してるし、修二がいなくなってから注目すべき存在の一つを失った。修二の行動は、その仕草や鳴声一つ一つがネタにもなったし、心を寄せる場の一つだった。 つまり、今短編が書けないということは、日常生活を重要視していないと言う事で、長編ばかり書いていると言う事は、日常から逃れようとしている事なのかもしれない。何しろあたしの書く長編は、きわめてファンタジカルなものが多いからだ。 ま、なんにせよ話を書くと言う事は、己の想像力と現実注視力との戦いで、書けなくなったときが限界なんだと思う。追い駆けられていると思っていても、そのうち書けるのならまだ自分の限界は来ていないわけで、そう言う意味ではまだ幸せなのだ。 ついでに言うなら、一定周期で更新している際、その翌日などに通常以上のカウンターが回っているうちは、自分が誰かに必要とされている証でもあるので、もうしばらく足掻いてみるのもいいのかもしれない。 とりあえず、修二がいなくなって始めての短編集合長編を書こうと思っている。基本設定さえ飲み込んでおけば、一話一話が独立した短編になっている形体で、幾つも書いていくのだ。 あの時モデルになってくれた修二はもういない。 でも、たぶんできるよ。 修二は自分の中に記憶と来て刻み込まれているし、今回は修二をモデルにして書くわけじゃないんだから。 立ち止まって逡巡してるだけじゃ大きくなれないよ。 立ち止まって躊躇ってては、前に進めないんだ。 前へ。 その足で、進め。
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