行人徒然

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感謝
2001年09月27日(木)

 時々、母親が弁当を作ってくれる。自分で持っていくとおかずが一品にすし詰めのご飯とか、固く握り締めたお結びが2個だけとかだったりするんだけど、母親が弁当を詰めてくれた日はおかずがたくさん入っている。


 まだあたしが幼稚園に通っていたころ、家には浄土真宗の漫画が置いてあった。祖父母が孫のためにと置いていった3冊の漫画。教育絵本と欠いてあるそれは、3色刷りのあまりいい紙ではないものだったように覚えている。今はそれがどこにあるかわからないが、その絵本は繰り返し詠んだので内容をよく覚えている。

 一冊は親鸞上人の生立ち。
 一冊は親鸞上人の教え。
 一冊は釈迦の話。


明日ありと思う心のあだ桜 むべ山風に嵐と散るらん

 春に上人が出家する時の歌だ。子供心に、納得してしまったのを覚えている。夜中にその法師のところにやってきた親鸞は、もう遅いから明日にしようと言う言葉にこの歌を返したのだ。
「明日があると思って興味無かった山の桜は、強い山風(=嵐)で散って、結局見ることもできません」
 だから、今すぐ出家したいのです。明日があると思っていては、結局何もできなくなってしまうかもしれません。思い立った時にそれをしないと、後で後悔するかもしれないし、後悔するのは嫌ですから。

 この時のページは、もうそれを見なくなって何年も経ったと言うのに、今でも鮮明に思い出すことができる。



 それから、思い出すのは紙の匂いの話と、大きな石を船で運ぶ話だ。親鸞上人が二人の弟子と旅をしているのだが、一人はしっかり者で、もう一人はあわてんぼうのそそっかしや。いうなら、水戸黄門と、各さん〔または助さん〕にうっかり八兵衛の三人組というところかな。
 で、道中いろいろな教えを説いていくのだ。

 道端に落ちている紙くずを、一つずつ弟子に拾わせる。一つは菓子を包んでいたのか甘い良い匂いがし、一つは肉か魚を包んでいたのか生臭い匂い。
 本来、紙はにおわない筈なのに、何を包んでいたかでそれは変わる。人も、心の中に悪しきものを入れるか良きものを入れるかで、全く変わってしまうのだ。
 紙が中にあるものと同じ匂いを持つように、人も心の中と同じになってしまう。良き人になりなさい。そのためには良き心がけを忘れない様にしなさい。周囲に良き人たちを置きなさい。

 親鸞は川岸で、二人の弟子に石を持たせて川に投げ込ませた。どうにかして石を浮かせてごらんと言われて、弟子達は何度も石を投げ込んでみたり、そっと川面において見たりした。だが、石は浮かぶ事無く、いい加減に疲れたところで親鸞は言った。
「あの船を見てご覧」
 そこには、大きな岩を乗せた船があった。
「それ一つだけではどんなに小さくても石は沈む。しかし、船と言う助けを得れば、どんな大きな岩だとしても水に浮かぶことができるのだ」
 人も、一人では苦しみや悪に沈んでしまう。誰かの助けを得、また、あなたも誰かを助けてあげなさい。誰もあなたを助けてくれなかったとしても、仏様の教えは必ず巨大な船となってあなたを濁流から救ってくれるはずです。



 この二つの話は、最近特に思い出す話だ。漫画のコマ一つ一つを思い出すことができる。詭弁と言われるかもしれない内容かもしれないし、お前は果たして仏教徒なのか、キリスト教徒なのか、それ以外の神を信仰しているのか、無宗教なのかと問われるかもしれない。
 でも、この話はとても好きだ。どんな宗教も、同じ事を言葉を変えていっている。だから、これは真実の言葉なのだと思う。ただ、それをあたしに教えたのは浄土真宗という宗教だったに過ぎない。



 最近、昔ならどうでもいいようなことに感謝をするようになった。自分の甘さやわがままを思い知るようになった。
 歳をとったのかもしれない。ようやく子供を脱してきたのかもしれない。
 もう少し早く感謝を思い出していれば、この大好きな話をもっと早く、自分のものとして実感することができていたら、あたしは違う道を歩いていたのだろうか。
 でも、人生なんて歩いてきたそばから崩れる道の上にあって、絶対に後戻りなんかできないんだから、この先如何にして歩いていくかを考えるしか方法は無いだろう。
 思えば、自分はなんて恵まれていたのだろう。

まずはそこから感謝して。

 振りかえらずに、先へ進もう。迷わない様に、おぼれない様にみんなが出してくれる手を片手で握り締めて。
 もう片方の手で、おぼれる誰かの手を握ってあげながら。

進もう。




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