日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2017年10月12日(木)

最近、自分の経験から「あ!これってACIMで書かれてたアレのことだよね?」と思うことがいくつか出てきています。

それから、以前はスルーした「なんか嫌だなー」ということがまた現れてみたりしています。形は異なるのですが、嫌の質が似ているのでした。
以前のときは「スルーしたこと」がわたしにとってのクリアポイント、成長ポイントだったのですけど(多分。なんとか頑張ろうとしてしまいがちだったので。)、で今回は、以前のバージョンよりは少し食べやすく砂糖がまぶしてある、みたいな感じで。
それなのでそれに流されてしまわずに「どこに自分は嫌だと感じてるのか」というのを明確にする作業をしっかりやってみよう、それを拒否感からではなく相手に伝えてみよう、みたいな感じになることがありました。

嫌だなと感じた感覚。どんな嫌さなのかな?とみてみると、なんか「古臭くて嫌だ」ってそういう感じでした。
伝統的であっても古臭さを感じないものもあります。うーん?どう違うのかな?と思いました。

古臭さを感じたのは、「昔の形を採用した」ということから感じられるようでした。
その時代にうまくいっていたとしても、その頃とは人も生活も考え方、信じているもの、集合意識などなどいろんなものが変わっているわけで。
それを考慮せずに形だけ同じことをして同じものが得られるかというと・・・それって全く腑に落ちないぜ、という感じ。
そういうのをパッと最初に「古臭くて嫌だ」と感じた、と。

伝統的であっても古臭さを感じないものは、形も意識もどちらも当時と同じものを行っていると感じられるものを指しているのかもしれません。
それはどこから感じるのかな。意識がどうかというところかな。
自分にないから得ようとするのではなく、もうその意識になってる、そういう感じには古さを感じないのかもなとか。

古臭く感じさせたこれが、偶像崇拝というものかもなー。
形だけ。そのつもりがなくとも。

わたしのイメージでは、古臭さは宗教っぽさとも重なるようです。
宗教は苦手なのでした。



逆に、これまで学んできてこれからも学びたいのはこれでしょ?というものにも出会いました。
というか、SNSで流れてきたのですが。

新渡戸稲造さんって、わたしは5000円札のイメージしかなくてどういうことをした人なのかなどよくわかっていなかった(いない)のですが、新渡戸さんの次の言葉がSNSで流れてきたのですよね。

「異なった国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定たる日が来るであろうことを、私がここに期待する。」

わたしはずっと長い間、他者に自分と異なった部分を見ると、諦めたり離れたり接触するのをやめたりしてきました。今も結構そういう自分が出てきます。
そうして自分の「平和」を得ようとしてきたのですけど。

それと全く逆ですよね。新渡戸さんの文章で言っていることって。

だからなのか、わたしはこの言葉を読んでしばらく涙が止まりませんでした。
わたしのずっと望んでいた平和は、人から離れるのではなくて親密さから、個人的な接触から生まれるものだった、と改めて思ったこと。
そしてそれを80年くらい前に亡くなった新渡戸さんが望み、期待したということ。
実際に望んでそう生きた人の存在は、わたしにはとてもインパクトを与えるのでした。

こういったことはずっとジャックさんのところでも学んでいることであって。
ジャックさんのクラスでお話を聞いていて、泣けて泣けて仕方がないけどなんでかがわからないということがわたしは結構あるのですが、その中のひとつがこれだということもわかりました。

まだまだ道半ばでござる。


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