日記×エッセイ...みち

 

 

おっさんずラブ6話見ました - 2018年05月27日(日)

こんなに夢中になるとは思っていなかった。

このドラマの見始めはほんの軽い気持ちだった。おもしろいテーマだなとか。フォローしてる方々の感想でこのドラマをおもしろいって言ってるなあとか。だから1話目はリアルタイムでは見てなくて、見逃し配信で見た。そしておもしろそう、好きそうだぞと毎週見ることになった。

5話目までは録画で見てた。リアタイではなく。わたしは睡眠大好きだし夜11時以降のドラマなので、録画で見てた。後から見ても大丈夫だった。

昨日の6話はリアタイで見た。そんな風に見たいと思うようになった。楽しみにしてテレビの前に陣取って見た。

そして昨日の6話。
昨日の6話。

見終えて、これを書いている今はもう見終えた後に眠って次の日になっているというのに言葉が出てこない。切なさと驚きとわからなさと愛とでできている。ぶった切られた感じも、つながりの感触もある。

そもそも予測や期待を超えてくるドラマだということは数話見ているうちに思ってたのだけど、最終話直前で、これ、、、

来週は最終話。このまま突き進んでほしい。この「わからなさ」と「愛」とをぶっ放してほしい。
ああ、この「わからなさ」ってプレゼンスか。過去の経験からとか未来の予測とかがばっさりなくなってる「今」の感じか。

このドラマのベースは恋愛ものなのかもしれないけど、わたしはこの二人(春田と牧)の恋愛がうまくいってほしいとかそういうところを求めるんではなくなっちゃった感じに、どう言葉を充てていいかがわからない。
わたしは二人にうまくいってほしかった。その気持ちがあったし、今もその気持ちはある。
だけど、それよりも二人の「幸せ」を願ってしまう。

「うまくいくこと」と「幸せ」とが別のものとしてある、そういう感じ。
これが自分でよくわからない。自分の中に感触としてあるのに。
うまくいっても幸せになれるし、うまくいかなくても幸せになれる。
逆に、うまくいっても幸せになれなかったり、うまくいかなくても幸せになれなかったりは起こりえる。
そういう風に、「うまくいくこと」と「幸せ」とが別のものとして、ある。

その「幸せ」がどういう意味なのかわからない。
何をわたしは「幸せ」と、願っているものとしてるんだろう。

その答えとして出てくる言葉はとても陳腐だ。「いいことを言う人」の口から語られるのを、擦り切れるくらい聞いたことのあるそういうような言葉だ。そして、「えー、その言葉で表現するのー?」と違和感が出てる。全然これまでの(自分にとっての)その言葉の使われ方、言葉の聞き方、言葉の意味合いが違うからだ。

それらを今、味わっている。


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