思考過多の記録
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数年前に知り合った女性ライターが結婚することになった。 相手は彼女のブログの読者。僕が彼女のブログを読み、彼女と実際に会った後に知り合ったようだ。つまり、比較的新しい読者である。年齢は、おそらく僕とさほど変わらない。 これまで壮絶な人生を送ってきた彼女だが、漸く心の安定を得たようだ。
勿論、彼女はこれまでも様々な男と付き合ってきた。 その中には不倫もあった。 しかし、彼女に言わせれば、それは相手が自分を好きになり、付き合い始めたことばかりだったそうだ。 だから、彼女は本当に心の底から男性を好きになったことがなかった。 そもそも彼女が育った家庭は崩壊していた。 それが嫌で、高校時代に彼女は家出して、それ以来1人で過ごしてきたのだ。 彼女が肉親の愛情を浴びることなく育ったという生い立ちから、彼女が「本当の愛」を知らずに育ち、それを求めて彷徨していたこと、それが故に「幸せな家庭」=「結婚」に憧れを持っていたことは容易に想像が付く。ブログなどの文章には「自分には結婚は無縁だ」という意味のことを書き連ねていたが、「本当の愛」を与えてくれるパートナーを求めていたこと、その人と家庭を築くことを夢見ていたことはすぐに分かった。
ただ、彼女の読者は、彼女が孤独な境遇で頑張っている姿を応援している人達が多かった。彼女がパートナーを見付けて結婚するという「幸せ」を掴んだことで、興味を失ったり、裏切られたと思って去って行った人達がかなりいたようだ。そういう人達は、結婚することによって、彼女の書くものがつまらないくなってしまうのではと懸念したようである。 それに対して、彼女は一貫して「自分の中にあるものは変わらない」と言い続けた。
そして、結婚を前にした今、彼女は一足早く旦那になる男性の家にいる。 愛する人とずっと一緒にいられる環境は、彼女に予想以上の心の平安をもたらしたようだ。 それとともに、彼女の文体に明らかな変化が生じている。 これまでは、自分の思いをストレートにぶつけるような表現が多かった。彼女の内面や過去の経験から導き出した教訓や思いを、重いパンチのように繰り出してくる感じだった。まさに、「渾身の」という言葉が相応しい、のっぴきならない強さのようなものが伝わってきて、それが読む人を惹き付けてきたのだ。 だが、彼の家で過ごすようになってから、彼女の文章から「重さ」が消えた。何というか、力みが取れたような感じである。 彼女はずっと「自分の理解者を探すためにものを書いている」と言ってきた。 最大の理解者を見付けた今、その第一の目的は達した。 今までの彼女は、主に自分のために書いていたのである。 著書を発表した時「自分のように孤独にさいなまれている人を救いたいと思って書いた」と言っていた。それも決して嘘ではないだろう。だが、それは他人の救済をすることで自分を救済するということだったのだと思う。
それが今は、これ以上自分を救済する必要がなくなった。 漸く彼女は「書く」こと自体を本当の意味で楽しめるようになったのかも知れない。 今までストレートに描いていたことを、オブラートにくるんだり、組み替えたりしながら、「新のフィクション」として構築する。それができるようになってきたのだ。 偉そうに聞こえるかも知れないが、彼女は明らかに進歩した。環境の変化が、彼女と彼女の文章を変えたのである。 彼女の元の読者からすれば、物足りない方向に変わってしまったのかも知れない。 だが、僕から見えれば、ここから本当の彼女の世界が切り開かれていくのだ。理解者を得て、支えてくれる人が傍にいて、そこでものを作ることで、彼女は今までとは違った強さを手に入れたのだといえる。
僕はずっと1人だった。 生まれ育った家庭に両親の愛はあった。親類の多くも僕に愛を与えてくれたのだと思う。 だが、血が繋がらない異性から愛されたことはなかった。 つまり、僕はずっと孤独な戦いを強いられてきた。 これからもそうかも知れない。その可能性はかなり高い。 そうだとすれば、僕の文体や作品が、いい方向に変わっていくということはあるのだろうかと心配になる。 ずっと1人なので、自分の傍に寄り添い、自分が相手を守り、相手も自分を守るような人がいない。 人間関係に深みがない。そういう人間の作るものが、本当に人の心をうつのだろうか? 僕は本当に心配である。 同時に、絶望的な気持ちになるのである。 クリエイターとしてこの先成長できないとしたら、それは僕自身の存在意義に関わる。
何故そういう人が現れないのか。 僕に魅力がないのか。ということは、僕の書くものにも魅力がないのか。 そして、このまま現れなかったら、僕のクリエイターとしての、そして男としての生命はいずれ絶たれることになるのか。 僕は本当に焦燥感に駆られている。 答えは見えていない。 光はさしてこない。
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