2008年08月20日(水) |
かみなり【北城家シリーズ】 |
先ほどまでの眩しいくらいの夏の日射しは、 緩やかに吹き始めた涼風を頬に感じてほっと一息ついている間に薄い雲に覆われはじめた。
「…………小太郎」 「――は。おそらく、この風ではあと四半刻ほどかと」 「そうか」
氏政は小さく頷き、芝生にしつらえたプールではしゃぐ娘と弟たちに声をかけた。
「高耶、そろそろあがりなさい。氏忠、氏光も着替えてこい」
「――りょーかい」 「分かりました、氏政兄。……そろそろ、来るみたいだしね?」
弟たちは訳知り顔に素直に母屋に向かったが、納得しなかったのは、 広々とした芝生の上にビニールプールをしつらえてもらって、ご満悦で水遊びをしていた少女――高耶だった。
「――やっ!まだあそぶの」
赤と白のワンピースの水着は裾に細かいフリルがついていて、それを着て水の中にぺたんとアヒル座りをする少女は、まるで金魚のように愛らしい。 ――しかし当の金魚はむぅ、と父親をにらんでふくれている。 ふくれっつらであっても、「それすらもが可愛らしい」…と内心メロメロの父であったが、氏政はそれこそ筋金入り(約300年)の鉄面皮で崩れそうになる頬と目尻の筋肉を保ちつつ、高耶が座り込むプールの側まで歩み寄った。
「もうすぐ雨が降る。だから水遊びは終わりだ」 「降ってないもん!」 「―だからもうすぐ降る、と言うておる」 「降らないもん!」 「そうかな?…風がつめたくなってきた。向こうの空を見てみよ、あの黒い雲が来れば、たちまち滝のような雨となる」
父の指さす方向の空の黒雲を見て、高耶はぶるり、と身震いした。 そういえば、いつの間にか太陽は雲の中に隠れてしまい、吹いてくる風に、体はどんどん冷やされてゆく。
「……………………」
ひょっとしたら父さまの言う通りなのかもしれない、そう思ったが、なんとなく素直に返事ができなくて…高耶は、ぎゅ、と父が買ってくれたイルカのおもちゃを抱きしめた。
氏政はそんな娘の様子にふき出したくなる。父が正しいことを言っていると分かってはいるようだが、それに対して素直になれるタイミングを失って狼狽している……そんな表情だ。 昔はただむくれて反発されているとしか見えなかったのだが、氏照はその意地っ張りさが可愛いのだと熱を上げていた。 ―今なら、分かる。 ―自分はどれだけのものに、目を瞑って生きていたのだろう。
しかし、このまま放置していては、雨に当たらずとも体を冷やして高耶が風邪をひいてしまいそうだ。強引に抱き上げてでも母屋に連れて行くしかあるまい。(抱き上げてしまえば、高耶はすんなり腕におさまってくれる。…それほど、高耶にとって氏政―父の抱っこは、貴重で大好きなのだ)
そう決意して氏政がかがみこんだ時、「それ」は聞こえた。
――まるで空の彼方でいくつもの太鼓を打ち鳴らすような――
(――遠雷か…思ったより早いな……)
「いゃあああああああっっっっ!!父さま、父さま!」
どんっ、と軽い振動とともに、氏政の腕の中に小さな子供はしがみついた。
「…どうした、雷が怖いか?高耶は」 「イヤッ!やっ!帰る!!」
そしてまた、空気を揺るがせて思い雷の音が鳴る。 先程よりも近くなったその音に、高耶は身をすくませて、ぎゅうぎゅうと力の限り父にすがりつく。 強く閉じられた目からはじわりと涙があふれはじめたのを見て、氏政は娘を包み込むように抱き上げ、ぎゅう、と子供の顔を胸におしつけたまま、母屋へと急いだ。
「降り出しましたぞ、お早く」 「分かった」
ぽつり、ぽつりと降り始めにしては大粒の雨。 氏政が母屋の縁側に上がった頃には、彼の肩もいくらか濡れていた。 馥子がそれを待ち構えたように、大判のバスタオルで高耶ごと氏政をくるんで軽く水気を取るように拭いていった。 いつもの嗅ぎなれた洗剤の香りに高耶はほ、と力をぬきかけたが、さらに大きくなる雷鳴にびくり、と体をふるわせ、さらにまた氏政に抱きついた。
「お風呂を用意してあります。どうぞお入りになってくださいな」
怯える娘の頭を優しく拭いてやりつつ、馥子は夫に提案した。 雨だけでなく、全身濡れていた高耶を抱いてきたのだ。彼のシャツの胸から腹にかけてはしっかり濡れてしまっている。しかも現在も高耶がしがみついたままで、このままでは乾くどころか両者とも冷え切ってしまう。
「ああ、そうさせてもらう。…高耶、風呂に参るぞ」
「――ヤッ!」
両親は目を丸くした。今まで、娘が風呂に入るのを嫌がったことはない。――まさか、齢4歳にして「父さまとお風呂に入るのはイヤ」…と最後通牒をつきつけられるのかと氏政は内心冷や汗をかいた。
「―何故だ?このままでは風邪をひいてしまうぞ?」
――しかしそんな動揺を表に出すことなく、父はさりげなくバスタオルにくるまったままの子供を風呂へと誘う。
「いかがしたのじゃ、高耶。兄上と入るのが嫌なら、ワシと一緒に入るか?」
好機とばかりに乗り出してきた氏照の言葉に、氏政は切れるような視線で弟をにらみつける。高耶を抱いたまま弟に蹴りでもくれてやろうかと思った矢先、
「いやっ!テルおじちゃんとなんか入んないもん!」
――氏照、精神的ダメージを1000P喰らって撃沈。
そんな娘の様子に苦笑しながら、母は娘が被ったままのバスタオルを外し、眉毛を八の字にしてなんとも情けない表情の高耶の頬に触れる。…その上方で、表情までは変わらぬものの、眉毛がかすかにではあるが娘と同じ形になっている、その形があまりにもそっくりで、馥子は吹きだしそうになるのをこらえながら微笑んでみせた。
「――高耶、お風呂に入らずに高耶が風邪をひいてしまっては、母さまも父さまも、叔父さま方も小太郎も心配してしまいますよ。…なぜ、今日はお風呂に入りたくないのかしら?高耶はお風呂大好きでしょ?」
「だって…」
「?」
目に涙をいっぱいにたたえて、高耶は必死でうったえる。
「だって、かみなりさま来てるのに、お風呂で裸になったら、父さまも高耶もおへそ取られちゃう……きゃぁああああああっっっ!!!」
折からの稲妻と響きわたる雷鳴に、高耶は父の首にひし、とかじりついた。 なんとも可愛らしい理由に馥子はくすくすと笑い…夫の顔を見上げて……止まった。
――笑みくずれている。 あの、めったに表情を動かさない夫が、これでもかといわんばかりに、まさしく「でれでれ」という言葉がぴったりとハマるくらいに、笑みくずれていた。 写真を撮りたい!…ととっさに思ったものの、生憎と手近にカメラもなければ携帯もない。頼りにしようとした義弟たちはあまりの衝撃に固まってしまっている。…やはり、この夫の様子は300年に一度あるかなきかの大スクープなのだ。データに残すことが不可能ならば、これはもう、この表情と様子を、記憶のアルバムに焼き付けておくしかないではないか。――後で、こっそり絵に描いておこう、と固く決心しながら。
それぞれがそれぞれの理由で動けないでいる中、氏政はそっと、まだ湿っている娘の髪をなぜた。
「心配いらぬ、高耶」
その声は、深く、優しく。そしていつものような冷静さも失わず。 表情は笑みくずれているのに声はいつも通りってどうよ?!…と、弟年少組の2人は悶絶した。 父の首筋にすがりついて震えている高耶だけがそれを知らない。
知らないまま、父の、深く自分に染みこんでくる声を聞いていた。
「へそを雷神に取られるなど、いらぬ心配ぞ」
「……だって……」
「此処は北城…この屋敷の敷地自体が、堅固な城だ。小太郎や氏照たちは、怪しげなものなど一歩たりとも入らせはせぬ」
「……ほんと……?」
高耶は、氏政の首に両腕をまわしてすがりついたままつぶやく。 氏政は、そんな娘のしなやかな黒髪を、もう一度なぜた。
「本当だ。そして万が一雷神が来たとしても、この父が退治してくれよう。だから、なにも心配はいらぬ。…それとも、私は雷神に負けるほど弱いと思うか?」
父の言葉に、高耶は慌ててかぶりを振って、父の顔をはっきりと見つめた。
「そんなことない!父さまは強いもの!」
そうなのだ。高耶の父は、背が高くて、大きな手で、時折道場で剣をふるう姿は誰よりもきれいで、弓を射る時の目は視線そのものが矢のようで、怖いくらい「つよい」人なのだ。そして、その強く大きな腕で、高耶を抱っこしてくれるのだ。…仕事が忙しくてたまにしか抱っこしてもらえないのが、ちょっとだけ寂しかったりするけれど。
高耶の素直な言葉と自分を信頼しきったまなざしに、氏政はふ、と微笑んでみせると、高耶の体をゆすり上げて抱きなおした。
「…そうだ。たとえ雷神であろうと阿修羅であろうと毘沙門天であろうと、高耶に近づく事は許さぬ故、安心するがよい。……では、早く風呂に入って温まらねばな。風邪なぞひいたら、明日は芦ノ湖に連れてゆけぬぞ?」
「芦ノ湖」の名前を聞いて、高耶は慌てた。明日から三日ほど、氏政は夏の休暇を利用して小田原に連れて行ってくれるのだ。もちろん母の馥子と、小太郎も一緒に。社会人や学生の叔父たちも、仕事やアルバイトの合間を調整して、交代で来てくれるということだった。
「高耶、「あしのこ」行くもん!おだわらのお城に行って、ゾウさんとキリンさんにも会うんだもん!」
「では、父と風呂に入るな?」
「はい!」
娘の良い返事に、氏政は満足そうに微笑み、高耶を抱いたまま風呂場へと足を向けた。
後に残された馥子はくすくすと笑いながら、小太郎を振り返った。
「どうやら高耶はこれから、変な虫に悩まされる心配はないようだけど…虫がつかなすぎるのも…考え物かしら、ねぇ?」 「高耶さまはお小さい頃から本物の「武士(もののふ)」を見ておいでです。虫などと胡乱な輩をご自分のお相手には選びますまい」
無表情のまま、しかしはっきりきっぱり親バカさながらな発言をした老執事に、よく似た主従ね、と馥子はまた微笑んだ。
「……今の手、使えねぇかな……」 「どの手のこと?」 「いや、父上(竜神)に雷を鳴らしてもらって、そしたら彼女が向こうからこう…ぎゅっと」 「………………」 「胸とか当たったりしてさ〜♪」 「……氏忠兄…多分その雷は、ピンポイントで自分に落ちると思うよ」 「………………」
雷鳴は次第に遠ざかっていった。 雨がやむのも、そう遠くはないようだ。
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