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窓のそと(Diary by 久野那美)
by 久野那美
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■バターを落とすことの悲しみについて。たぶん。
しかも目の前に歴然とある、不始末の結果は自分がなんとかしなければ、消えることな永遠に目の前にあり続けるのです。内面にのパニックが目に見えるところにあふれだしたかのようなどうしようもなさ。
ちょっとの間ちょっと何かを我慢すれば起こらなかったはずなのに、そのちょっとがうまくいかなかったために引き起こしてしまった目の前の出来事の後始末をつけなければならないむなしさ。やりきれなさ。
今思いつく、いちばん近い現象は、「失禁した」ときのそれではないかと思います。

2,3日、落としたバターのことを考えながら過ごし、もう一度その掲示板を見てみました。コメントの数はどんどん増えているようでした。そしてその多くが、奥さんの心身の健康を心配するものと男性の鈍さを指摘するものでした。

はっとしました。

もしかして・・・・。

バターを落とすということは実はそういうことではないのかもしれない、と思ったのです。

バターを落として号泣する人間は実際、病んでいる。
という可能性に初めて、思い当たったのです。

そうすると。
上に私が延々乏しい語彙を総動員して説明しようとしたことは、バターを落とす
ことの悲しみついてではなく、バターを落として号泣している人間の病んだ思考についてだということになります。私は自分の情緒不安定について実証していたことになります。
どうしたものか。

考えてみましたがいい案が浮かびません。

そういうわけで、このことについてこれ以上考えるのはやめることにしました。
誰かに話して共感を求めることも、とりあえずやめることにしました。

だけど、書いてしまったものをどうしたものかと考えた時、こちらはとりあえず日記にUPしておこうと普通に思いました。

今回に限らず。日記というのは、いえ、言葉というものは総じてそういうものであるのじゃないかと思ったからです。そこで説明されていることが、果たして、「バターを落とすことの悲しみについて」なのか、「バターを落とすことの悲しみを正当化しようとする人間の歪み」についてなのか、誰にもわかりません。分らなくても読めるのです。
ということは、両方書いてあることになります。

日記というのは、きっと、そういうものなんです。
そしてそれはおそらく、日記だけではなく・・・・。

10月28日(日)
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