ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■4803,変えてみよう!記憶とのつきあいかた ー1
        「変えてみよう!記憶とのつきあいかた」ー高橋雅延著
   * 自分も人生も、記憶がつくりあげる
 この本の感想文を書いていた昨日、9年前〈2005年05月08日(日)1496, いま・現在について−4 〉に、
記憶について書いていたことに気づいた。 よくある偶然の一致だが、ーまずは、その内容からー
《 「記憶のない男」ーDVDレンタル
 レンタルDVD で観た「記憶のない男」が、「いま」と「私」を考える上で面白い内容であった。
  ー知らない街に仕事を捜しに来て、暴漢に襲われて記憶を全て失った中年男の物語ー
 それぞれの人の「いま」は、それぞれの過去を背景を持っている。過去が記憶喪失で失われた場合、
その人の「いま」は無いに等しい。ストーリーでは、そこまでは表現しつくしてはいなかったが。
しかし、その空白を「いま・現在」という現実の中で、必死になって埋めようとする主人公の心を、静かに淡々と
映し出していた。過去の想起がなければ、[私]は存在しないに等しい。動物に[私]はない。それは想起ができないため。
もし自分が過去の記憶を無くしたら、「いま」という感覚は希薄になる。 青年時代の日記を偶然倉庫で発見。それを、
悪趣味的に、この随想日記で露わにした。その過去の「いま」を、思い出すほど、現在の「いま」との重なりが見えてくる。
そして現在の「いま」がより濃く深くなっていく。それは現在が過去より成立しているためである。
過去や、未来より、「いま」が全てだと考えがちだが、過去も未来も重要であることを教えてくれた映画である。
 {「いま」を人間の手とすると、過去と未来は人間の身体}と例えると解りやすい。手は手としては存在し得ない。
手はあくまで身体の一部でしかない。記憶喪失とは、「手そのものしか自分を感じ得ない」ということ。
身体全体が失われた感覚は想像しただけで恐ろしい。そこ(いま)には、「私」は無いに等しい。
[いま]に集中するということは、過去と未来に対して「楔」を打つことである。
楔を打つことは最も重要な行為である。しかし全体の構造を考えて打たなくてはならないのである。
今上の人生、来世のことは考えない方がよいのか? それとも、来世のために今生を生きるか?
やはり「いま」に全てを傾けるべきである!? 「どうせ死んでしまう」のだから。 》
▼ 人の記憶は、そのまま、その人の過去になる。その記憶がスッポリと無くなれば、その箇所の過去が消えたのと同じ。
 リタイア後は、過去と向き合う時間が多くなる。それは自分と向き合うことである。 問題は、その過去の解釈、受け
止め方になる。それを、ここで延々と書いているが、その受け止め方は、過去の蓄積の上の知識と経験のベースで決まる。
その記憶との付き合い方を、この書が変えようというのだから、面白くないはずがない。  ーつづく
・・・・・・
4436, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −6
2013年05月09日(木)
               ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
   * ルート5: 自己とは定義の結果だと理解する道(自他不分離の道)
≪ー自己という概念を取り去ってみるとー 意識は身体をコントロールする主体ではなく、世界を観測し世界と相互作用する
 身体Aという媒介の動作をモニターする装置に過ぎない。僕たちの心は、そもそも、どの身体に宿ってもいいのではない。
一つの身体に、一つの「こころという幻想」がセットになっているだけ。ただそれだけのことだ。どんな人間にも、心は一つ。
あなたの心は、よくSFにあるようにコンピューターに乗り移ったり、オカルトのように身体を抜け出したりできるものではなく、
脳の計算によって作られた単なる擬似体験劇場に過ぎないのだ。そう考えれば、特に身体Aを「自分の身体」と捉える必要はない。
 ・・・ 本書を読んでいる「クオリアA」は「あなたの心」ではない。何かを感じているだけの存在だ。たまたま、これまでは
「あなたの身体」と呼んでいた「身体A」と接続されていて、「身体A」が世界と相互作用した結果を観劇しているだけだ。

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05月09日(金)
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