ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3979, よかまん ー2
      「‘11年版ベストエッセイ集’人間はすごいな」 会田誠(美術家)
  ーよかちん節の由来ー
 これが??大学の大根踊りレベルだったら別に、そんなものだが、東京芸大の宴芸というから中和される。
それも自分の個展の入口に堂々と、というのも良い。品のないこと?この上ないので人には話すことでないが、面白さは格別。
卑猥な芸?も、書き方一つで抵抗なく読むことが出来る。若い時節の男の性欲は男なら分かるが異常に強い。 それを酒宴で、
露骨に踊ってみせるのも一興。 お神楽のヒョットコ踊りに、巨根の棒を振舞わして、オカメと踊るのを見たことがある。
その亜流だろうが、品はないが罪がない。 顔をしかめる人も多いだろうが、よくぞ・・である。 ー前回の続きからー
≪ 美術大学に代々伝承されてきた宴会芸に「よかちん」というものがあります。僕は今から四半世紀以上昔のこと、
 美大の新入生歓迎コンパか何かの席で初めて見たように記憶しています。どんなものかというと、宴もたけなわな頃、
やおら全裸の男が登場し、一升瓶を股間に挟んだまま(だから一応性器は隠している)、手拍子をとりつつ"数え歌"を歌い始めます。
「一つよかちん、なんじゃいな。ひねれば、ひねればひねるほど、よかちんちん。あ〜あよかよか、よかちんちん」
この「ひねれば、ひねればひねるほど」のところで、一升瓶を男根に見立てたアドリブによる(この場合"ひねる")ゼスチャーが入ります。
口述的に受け継がれる芸なので、歌詞のバリエーションは様々なようですが、僕が知っているところでは、数え歌は以下のように続きます。
二つー振れば、三つー見れぱ、四つーよじれば、五つーいじれば、六つー剥けば、七つー舐めれば、八つーやれば、九つー擦れば。
そして十でとうとうよかちんちんー と結ばれます。つまりこのような色々な体験をさせれば、良いチンポ(よかちん)に成長するという、
まったくもって脳味噌パーな、でも憎めない庶民的下ネタ芸なわけです。あと、どうやらルーツが九州ということもあって、九州男児的
マッチイズムの匂いもぷんぷんと漂っています。 学徒出陣で出征する美大生を「よかちル」で送ったという、泣き笑いの昔話を
ネットで見つけたので、おそらく戦前からあったものでしょう。浪漫主義華やかなりし明治後期、青木繁など九州出身者が東京美術学校
(現・東京藝術大学)の乱痴気騒ぎの飲み会で、郷里のお馬鹿芸を披露して喝采を浴びたーそんな空想を僕はしてしまいますが、もちろん
定かではありません。いずれにせ、少なくとも僕が美大生だった1980年代後半まで、油絵科を中心に脈々と受け継がれてきました。≫
 ▼ この後の文章に、よかちん節があるなら、よかまん節があってよいだろうと、創作したのが面白い。私も、品位が邪魔をして?
  そこまで思いもよらなかった。一升瓶の代わりに、ザルとは・・ とは。 Youtubeで調べたが、さすがに無かった。  ーつづき
 ・・・・・・・
3614, 哲学は死の練習になるか
2011年02月16日(水)
 * 哲学は死の練習になるか   ー木田元
死についての特集の中に、木田元の文があった。なかなか考えさせられる
  ーまずは、その抜粋からー
≪ 哲学者ハイデガーは『存在と時間』で「自己の死」についてこう述べている。 自己の死は「誰にも替わってもらうことができないし、
誰の助けを借りることもできず、それがくることは確実だが、いつくるのかは決まっておらず、その先にまわってみることなど決して
できない、自己の究極の可能性」なのだ、と。 そしてハイデッガーは、人間にとって「本来的な生き方」とは、この自己の死を
不断に見据え、それに覚悟を定めて生きる生き方、つまり「死に臨む存在」なのだと主張するのだ。
・・・ 自己の死についてのハイデッガーのこの見方はまことにユニークだが、まるで『はがくれ葉隠』のように、つねにおのれの死を
見据えて生きるというのが、いったいどういう生き方なのか、私にはうまくのみこめない。自己の死についてのハイデガーの
こうした主張に対しては、少し年少のフランスの哲学者サルトルも『存在と無』で異論を唱えている。

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02月16日(木)
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