ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3569, 沈黙せよ! ー2
「語りえぬものからの問いかけ」 ー東大駒場〔哲学・宗教・芸術〕連続講座ー
《「言い表せないもの」の詩学 −チュッチェフ『沈黙』の逆説 ー沼野充義 》の沈黙」
* 究極の逆説
ー まずは、沈黙せよと言いながら、沈黙を破り、この文章を書いている矛盾そのものが、以下に書かれている ー
【 ーそもそも「沈黙」をめぐる詩が存在するということ自体、なんだか妙なことではないか、ということなのです。
「何を言っても他人には理解されない、何かを口に出したら嘘になるのだから、沈黙せよ!」と主張している詩人がみずから
その主張に従ったら、詩は書かれなかったはずではないか。そもそも「沈黙せよ」という主張を言葉によって行なおう
とすることのうちに、矛盾がひそんでいます。厳密に論理的に考えると、これは「クレタ人はうそつきである、
とあるクレタ人が言った」という、あの有名なエピメニデスのパラドックスにも似た状況でしょう。
もっとも、私は哲学にも論理学にもまったく疎いのですが、言語芸術を多少なりとも扱う立場からあえて理屈をつけると、
その「矛盾」とはこんなふうに説明できるのではないでしょうか。 つまり、
;言語とはそもそも「何かを言い表す」ために人間が獲得した道具である、
;しかし、その言語をもってしても「言い表すことができないもの」がこの世界には存在する……。いや、ここまでならば、
特に妙ではありません。 どんな道具にも、どんな技術にも限界がある、それだけのこと。しかし、その先に、もう一つ、
;その「言い表すことができないもの」について、それでもわれわれは何かを言い表している、なぜなら少なくともそれが
「言い表せない」ということをわれわれは言っているのだから、という段階が付け加わると、やはりこれはなんだか妙な事態、
ここにはどうも解きほどきがたい厄介な問題が含まれているのかも知れない、という気になってきます。
無意味な屁理屈のように聞こえるかも知れませんが、ある意味ではこの厄介さこそが言語による表現の本質ではないでしょうか。
言語によって何かを表現しようとするものは必ず、その表現の限界に行き当たります。「言いたいことが自由に言えるから、
それがそのまま作品になった」とのんきに言っていられる文学者は、じつはまだその限界に突き当たっていないだけでしょう。
真の創造のプロセスは、むしろその先にあります。「言い表せない」ものに向き合ったとき、それでもなおかつそれをどうやって
言い表すことができるのか、この観点からすれば、文学的表現だけでなく日常言語でも常に使われる直喩や隠喩、換喩といった
比喩的表現の数々も、「言い表せないもの」をなんとかして言い表そうとする人類の古くからの努力の結晶ではないか、とさえ
思えてきます。本来、比喩とはあるものを、それ本来の名前で呼ばずに別のものの名前を持ってくる、という手法です。
どうしてものや現象をそれ本来の名前で呼ぶことができないのか、それは究極的に、言語が不完全なものだからです。 ー 】
==
沈黙するしかない弱者にとって、「語りえない」はありがたいことなのか、それとも、この言葉に反発を持つのか?
どうであろう。言い尽くせなくとも、限界の範囲の言葉で残しておく必要性はある。 チュッチェフの詩「沈黙」は素晴らしい!
・・・・・・・
3194, 句読点とは妖精のようなもの! ー1
2010年01月02日(土)
毎日、文章を書き続けていると、文章作法で色いろの問題にぶつかる。といって、誰も教えてくれない。
小説(の書き方)などには、作法の習得は、多くの本を読んでの我流という。「文章の書き方」とか、「小説の書き方」とか
いう講座もあり、経験則を教えているようだが、突きつめると独学しかないようだ。 とにかく量をこなすしかない。
まずはテーマと構想をたて、とにかく書いていく。そして起承転結の体裁を整えて、その後に、添削するしかない。
そのプロセスで更に考えるのである。そこで一番の問題は、「 、」と「。」である。 後者は、とにかく三段論法で
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01月02日(日)
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