ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■3275, 哲学者は神について、どのように語ったか ー5
* カントは神の問題を、どう片付けたか
哲学の問題は古代以来、「世界は何で出来ているか」「神は存在するか」「真理とは何か」「自由と自然因果律の関係」等、
大きく4つに分けて考えてきた。人間の「理性」に絶対的な信仰を置き、これらのテーマについて壮大な哲学を構築してきた。
それについて、カントは、その問題自体が無意味と切って捨てたのである。 カントは、「世界」「真理」「神」は、
元もと、理性の外にあるとした。 神も含めて、理性では認識しようがないとした。 カントは、もし神がいるとしたら、
客観(本質)は神のみが認識できる。人間の理性には限界があるから、人間が相手に出来るのは、もっぱら世界の現象でしかない。
カントは、世界を神のみで知る「本質」の世界と、人間が「理性」によって認識できる「現象」の世界に分断してしまった。
本質の世界は、理性では捉えることができないと、一蹴してしまった。 多くの哲学者が悶々として苦しんできた問題を、
そこで切り捨ててしまった。 そうこう考えると、神の存在そのものを問うこと自体が無意味ということになる。
神は、この宇宙の外の存在者と仮説をたてて、その内なる人間の理性で、その存在を問うことと自体が初めから無理。
ウィトゲンシュタインの「語りえるものは明晰に語り、語りえないものは沈黙を」と同じことになる。
「哲学は真偽の分からないことばかり語っている、判断の出来ないことを語ることなかれ!」と。
だから、誰かに「神は存在するのか」と問われたら、上記のような説明がベストになる。 とはいえ、神について、
のっけから考えることを遮断するのも問題である。 理性で現象だけを追い本質を分断することになる。
人間は言葉を持ってしまい、イメージとしての死の恐怖を植えつけられてしまった。 その恐怖から逃れるために
客観としての宗教が必要である。人生そのものは振り返ると夢・幻でしかない、と感じる。それなら、その人生の光を
包む暗黒のイメージに光の根源を入れておくこと、それも人生をかけて、つくりあげることも大事なことだ。
アッラーの神、ヤホバ、何でも良い。 イスラム教徒の祈りなど、非常に理にかなっている。あれは光の根源の祈りである。
偶然、気づいたが、去年の同日、書いた以下の内容に続く。
・・・・・・・・・
2900, 脳と仮想
2009年03月14日(土)
「脳と仮想」茂木健一郎著 −読書日記
松井孝典の「レンタルの思想」の中のキーワードの一つが「共同幻想」で、以前、読書日記で取り上げたことがある。
ーウィキペディアによると
共同幻想(きょうどうげんそう)とは、複数の人間で共有される幻想である。 日本の思想家である吉本隆明が用い、
有名になった言葉である。吉本は、自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、
ただ手垢がついているから使いたくなかったと述べている。
吉本隆明は、著書「共同幻想論」で人間関係は、3種類に分類されると提唱した。
▼ 自己幻想 = 個人と個人の関係。 ー芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。
▼ 対幻想 = 個人と他者とのプライベートな関係。 ?家族・友人・恋人がこれに当たる。
▼ 共同幻想 = 個人と他者との公的な関係。 ?国家・法律・企業・組合がこれに当たる。
ー以上だが、
これを読んで、いささかショックであった。日本社会を構成している「世間」=地域社会をみていると、地域の共同幻想を
抱いている集団社会が露出して見える。また宗教団体も教祖様の教えの刷り込みをした共同幻想集団のことも明白である。
自己幻想も、対幻想も、多くの幻滅を経験した結果として、所詮は自分も、自分を取り巻く社会も幻想で成り立ち、
そのバブルと破裂の繰り返しているだけということが分かった。 死に直面したり、リタイヤをする時に初めて、
勤めた会社を含めた全てが共同幻想の中で、自己幻想と、対幻想を持って生きてきた自分に直面することになる。
図書館で茂木健一郎著「脳と仮想」を借りてきた。 幻想と仮想と、何処が違うのか? 似たものなら、
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03月14日(日)
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