ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[395644hit]

■2976,縁は異なもの  ー2

   「縁は異なもの」 河合隼雄 白州正子 対談集   
 
 * 能とは

 能といえば高校時代に講堂で学習の一環として見せられたが、
「奥行きの深い、そして面白いもの」と感動をした記憶が鮮明に残っている。
その後、TVで何度か観たが初めほどの感動は無くなっていた。生とTVの違いもあるのだろう。
 ーこの本の中の、白洲正子の「能」の説明が解りやすいー
《 能はその昔、「猿楽」といって、平安時代ごろから行われた民俗芸能でしたが、室町時代になって、
当時流行していた、ほかの舞踊や流行歌を取り入れ、ひとつの芸能に集大成したという意味です。
 そういうふうにして総合されたお能は、大きく分けますと、舞と歌によって構成されています。
歌の部分を舞もしくは謡曲と呼び、芝居の脚本に相当します。 が、ふつうの、台詞は少なく、
歌の部分が戯曲や脚本とちがうところは、あくまでも歌いものですから歌が大半をしめているということです。
謡曲は、それだけでも独立した歌いものですが、能になると舞をともない、伴奏に、大鼓と小鼓と笛、
はなやかな曲には、太鼓も入ります。伴奏のことを囃子といいますが、他に、地の文を合唱する人々を、地謡と呼びます。
 謡いの文章は、音楽の拍子に合いやすいように、七五調を基本にしており、散文より詩歌に近いといえましょう。
近いどころか、謡曲は、和歌の伝統のもとに作曲されているといっても過言ではないと思います。
題材を、古い物語や歌集に得ているだけでなく、枕詞・掛詞・縁語などを、たくみにつづり合わせて、
叙情的な雰囲気を醸しだす。 反対に強い鬼の能などでは、かたい漢文調や経文の言葉を用いて、
はげしい動作に似合った表現をするといった具合で、それぞれの曲柄によって、工夫がこさられています。
もっとも、読むのが目的でなく、見るために作曲してあるのですから、謡曲の文章だけとってみても、
純粋な文学とは呼べません。 飛躍するときもあるし、意味のよく通らないところもある。
 お能は、舞台の上で舞って、はじめて完全な芸術となるのです。そこが戯曲とはちがった点で、謡の台本だけ読んでも、
お能の全体をつかむことはできません。 そういう意味では、文学というより、むしろ、音楽(歌いもの)としてとらえた
ほうがいいので、極端なことをいえば、一つ一つの言葉の意味など、わかっても、わからなくても、大差はないのです。
 たとえば、シェークスピアの劇はブランク・ヴァースといって、韻をふまない詩の形式をとっていますが、
美しいセリフのリズムに身をまかせていれば、英語はわからなくても、十分に堪能することができます。
言葉をもたないピアノやヴァイオリンでも、心をゆさぶるのと同じことで、それが音楽の表現する意味であり、
言葉でもある。 ましてお能の場合は日本語です。古語にくわしくなくても、だいたいの筋はつかめるはずです。
こまかい辞句にかかずらうよりは、その音楽的なリズムのほうがたいせつなのです。日本の芸能では、間と呼んでいますが、
よほど運動神経がにぶい人はべつとして、お能の間をつかむことが先決問題だと私は思っています。
 ーー
以上だが、室町の時代の芸能にしては、あまりに芸術性が高いものである。
能の面は無表情だが、能のカタを徹底的に身につけることで、能面の表情を現すという。
基本的には幽霊の語りと踊りというのも、この本で知った。 全く知らないことばかりである。

・・・・・・・・
2612、 佐藤優の速読術について
2008年05月29日(木)

「国家の罠」「自壊する帝国」の外務省のノンセクション作家である佐藤優の「速読術」の方法、考え方が面白い。
ーまずは、その概要を私なりにまとめてみた。
・速読法は、基本書を完全にマスターしているから可能であり、基本データが完全に
 インプットされていない分野では、無意味である。ヒンズー語を知らないのに、 
 その文献をいくら捲っても理解できないのとおなじことである。
 受動的勉強を充分に勉強した上で能動的な速読法ならわかるが、そうでないのは無理がある。

[5]続きを読む

05月29日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る