ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2969、住まうこととさすらうこと −1
「住まうこととさすらうこと」 ウーテ・グッツォーニ著
ー読書日記
*世界という家の中で、住まうこと と さすらうこと
図書館で何気なく手にとって、そのまま二時間以上も近くの机で読み込んでしまった。
その本の冒頭に芭蕉の『奥の細道』 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。 舟の上に生涯を浮べ、
馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」が書かれていた。
住まうこととさすらうこと、さすらうことと住まうこと。 人生を振り返ると、この二つの間を行ったりきたりした。
そこで学生時代の寮生活を思い出してみると、住まうこととさすらうことの重なっていることが解る。
そして、その後にジャスコに勤務をし、三重、神戸に行き。 東京に舞い戻り、金沢に、住まいさまよい、長岡に舞い戻り、
千葉に、そして、再び長岡・新潟に 住まいさすらってきた。 人はそれぞれが、住まいさまよってきたから、
その一言一言が鋭く心の奥に響いてくるのである。
通勤途上に私と同じ年位のホームレスの姿が「住まうこととさすらうこと」を目の当たりに見せつけられる。
住まうことは、特定の場所に、特定の時間にいることである。
それに対して、さすらいは、動いており、過程にある。異郷の馴染みのないものの挑発に実をさらし、
その中から身の証を立てていかなければならない。 その経験が、その人の人生である。
住まうことは「より自然に生じたもの」、より大地に結びついている。
それは、「屋内」という閉ざされたなかで、緊密な領域でくつろぐことである。
そこでは、開かれた外を忘れ、ゆったりと落ちつくところである。
しかし、住まいのないさすらいは、ただ落ち着きのないだけ。 住まいがあるからこそ、さすらいがある。
「男はつらいよ」の寅がそうである。 正しく人生は、住まうこととさすらうこと、である。
だから、この本に引き込まれ自分の人生を重ねてしまう。
人間の存在が、住まうことであるなら、それは「世界という住まいー家ー」に住むことである。
天の下、地の上を我が家にしていることを自覚することである。
逆にさすらいは、つねに新たな未知の空間や辺鄙な地域に行ったとしても
「全体的な世界」を自分の住処にするのである。
・・・・・・・・
2605, 自己愛について
2008年05月22日(木)
先回書いた「最近みる夢」で、自分の夢を分析して驚いたのは、自分の心の奥の本質を、
そのまま提示されたことである。
夢に出てくる「海」が「自己愛」の象徴で、海底の牢獄でもがいている己の姿に、我ながら驚いた。
ユングの地下の象徴の夢に近い。 その夢の中には、自己逃避、不安、自己愛、それに囚われもがいている自分、
そして、死などなど、多彩な内容が重なっている。これは、私個人というより、人間の本質を提示していると言える。
(いや、勝手に、そう解釈したとも言えなくないか?)
そこで、行き着いた「自己愛」とは何か?を調べてみた。
ーー
真の自己愛とは、奥深い自分に忠実であるということ。
自分が深く納得している自己愛でなければ、ナルシストの姿かたちの表面的なものに過ぎない。
キリスト教の教えのように、真の自分を愛するように隣人を愛しなさいという、自己愛である。
自己愛という言葉は、「私さえよければ」という利己主義とはまったく違う。
あるいはまた、自己愛は自分の魅力を感じて自分自身が好きであると思われることもあるが、
本当はそれとも違う。 その区別を見わけるために、本当の自己愛の条件をあげてみる。
自己愛とは、自分が認められたり、周りから褒められたりすると、喜ぶ。これが自己愛です。
生きていくうえで、他者の存在は絶対に必要で、そのため自己愛と同じように他者愛を持つことも必要となる。
常に自分が一人ではない、と認識したうえで、自己愛を持つことが、健康な自己愛といえる。
その極端な「自己愛性人格障害者」の特徴として、次のようなものがあげられる。
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05月22日(金)
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