ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2919,寝入る瞬間を経験したことがあるか? ー3
マギーの「哲学人」の中に、次ぎのような文章を見つけた。
ー私は寝入る瞬間について大いに頭を悩ませていたが、ウィトゲンシュタインは死に関して、
それと同じような瞬間を扱っていた。その瞬間を経験しようとしても無理であると彼は述べていた。
なぜなら、明らかにその瞬間に意識がなくなるため、それを意識できないからなのだと。ー
これによると、その瞬間は意識がないのだから、ない意識が、それを経験できないというのだ。
「もし哲学者が考えるとしたら?」と私が考えた内容と酷似はしている。
しかし私の実体験とは違っている。
「あっ!」という数百分の一秒の感覚を、寝入る瞬間に直感したのである。
実際にスット意識を失う刹那(瞬間)を感じたのである。
「その瞬間の感覚は、寝入る瞬間の直前であり、寝入る瞬間ではない」と反論されそうだ。
しかし、「それが寝入る瞬間だろう」と、反論も可能である。 それに対して、
「意識が無意識の世界への移行の瞬間を如何して感じ取るというのか、論理からみて疑問である。
その直前の刹那が果たして経験できると言うのか?」と言うだろう。
しかし私は、その刹那を感じたのだから、何を言おうが事実は事実である。
「それでは証明しろ」と言われれば、証明のしようがない。
この書で寝入る瞬間を経験することは、ほぼ不可能で私は特異経験をしたことが分かった。
寝入ったアチラの物語の夢について、ここでも多く書いてきたが、
気楽に内容を言葉としてノートに書き出すと面白い。このテーマとは関係ないか!
ところで寝入る瞬間の体験って、そんなに大事なこと? って。
ある哲学の本を読んでから、ほぼ皆無というなら、私にとって大事なことです!
毎晩、何度も目がさめる者にとって、一度は経験してみたいもの。それを経験したのだから。
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2555, ホモ・ルーデンス ?1
2008年04月02日(水)
『ホモ・ルーデンス』 ー読書日記
ヨハン・ホイジンガ(オランダの歴史家) 1938年著。
「文化は遊びとして、もしくは遊びから始まったのではない。
言うならば、遊びの中で始まったのだ」
ーすべては遊なりー
ー文化は遊びの中にはじまるー
ホイジンガーの言いたいことは、この二つに尽きる。
まずは ーすべては遊びなりー(遊びの考察と定義とは) について考察してみよう。
ホイジンガの遊びに対する考察は、プラトンの言葉から始まる。
「真面目にすべきことは真面目にやり、真面目でなくてもよいことはそうしないでもよいのです。
最高の真面目さを以て、事を行うだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。
これに対して、人間は、ただ神の遊戯の玩具になるように、というので創られた。
これこそが、人間の部分です。だから人はみな、男も女もそういうあり方に従って、
最も美しい遊戯を遊戯しながら、今ちょうど心に抱いているのとは正反対の考えで
生きてゆかなければならない。(プラトン対話集『法律』)」
著者は、この真面目と遊びの対立において、
「真面目は遊びを閉め出そうと努めるが、遊びは喜んで真面目さを自己の中に抱き込むことが出来る」
と、遊びの優位性を説いている。
そして、遊びの定義として、
「遊びは自発的な行為もしくは業務であって、それはあるきちんと決まった時間と場所の限界の中で、
自ら進んで受け入れ、かつ絶対的に義務づけられた規則に従って遂行され、そのこと自体に目的をもち、
緊張と歓喜の感情に満たされ、しかも『ありきたりの生活』とは『違うものである』という意識を伴っている」
「遊びは人間がさまざまの事象の中に認めて言いあらわすことのできる性質のうち、
最も高貴な二つの性質によって充たされている。リズムとハーモニーがそれである」
遊びの定義から、世俗に対して離れているという点で、「聖なるもの」と「遊なるもの」は同一であると。
最後の文章に
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04月02日(木)
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