ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2609, サルトルについて、考えてみる −1

              ..φ(ー ̄*)カキカキ_φ(* ̄0 ̄)ノオハ
 最近は、サルトルは人気がないが、私が学生時代は最も人気のある思想・哲学者であった。
サルトルといえば「存在と無」である。その中で説かれている「対自」と「即自」と「対他」
というキーワードがある。これらの言葉に出あった時の驚きを今だに忘れることが出来ない。
この言葉から「自分の裂け目」を言葉で初めて知った。
 ・そのままの存在が「即自」。 犬は己を犬と思わない。 自分が何者かを問わない存在。
 ・その己に語りかけるのが「対自」になる。自分が「〜である」ことを意識して生きている存在。 
 ・そして、他人から「もの」として見られる存在という意識が「対他」。 
 
「実存が本質より先立つ」人間はまずは生まれて「存在」となる。その後に、それぞれの本質が作られる。
実存主義だが、サルトルは、 それで、「私」という殻から抜け出て「外に出よう」と....。 
この辺が学生時代の「私」の理解である。当時、これを読んでいるうちに少しオカシクなりかけた記憶がある。

先週は、面白いので手持ちの哲学書入門書の何冊かを引っ張り出して、サルトルに集中してみた。
なるほど大戦後に一世を風靡するだけのことがある。共産主義の理解者として、左派のイメージが当時あったが、
現在振り返ってみると、それほどでもない。

  さて、この一週間で サルトルで思い出した知識といえば、
・「主体性」の哲学であること。
・デカルトは「あらゆるもの疑ってみた結果、疑っている自分、そのように考えている自分がいる、
 ということだけは疑うことが出来ないのではないか」と考え、「私は考える、ゆえに私は存在する」とした。
  それをサルトルは批判をした。 彼は「私が、何かを見ている」「私が何か考えている。」の
 「私」が疑問という。「何か考えている」は確かだが、「私」は振りかって「反省」をしていた時に生まれる対象。
 つまり反省している意識とは、意識自身を対象とする意識なのである。「私とは一人の他人」なのである
・人間は自由の刑に処されている。
 「人は何も決められてない投げ出されて、一から自分をつくりあげていくしかない。
 それが人間の「自由」である。投企とは、現在の自分を乗り越えるため未来へと 自分を投げ出していくこと。
 人生を前向きに生きていくことということである。
・アンカジュマン=自分の選択をする以上、自分の行動には責任を負わなければならない。
 と同時に、社会の未来に対して責任を負うべきである。
  ー 等々である。                   
       次回は、新たに知ったことを要約してみる。
                             ヾ(^ω^*)
・・・・・・・・・・
2007年05月26日(土)
2244, 耐震偽装 −2
          ゜・。*ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!!。
この本の、面白さは著者の藤田東吾がHPに時系列で記録を残していることである。
だから政治家や役人が奇麗ごとをいっても、その時やりとりした記録には真実の迫力がある。 
ネット上に事実が時系列に流れているからである。「安部首相が何で『美しい日本!』
など言う資格があるというのか?」と週刊誌に取りあげてあったが、これを読んでいると心底から同調する。
魚は頭と尻尾から腐るというが、全くその通りである。

藤田はパソコン世代なのである。会社のHPや自身のパソコンに詳細に成り行きをメモしていたのである。
文藝春秋が圧力?で、この本の出版から降りてしまった。
しかし、彼は自費出版というカタチで世に問うてきいたのである。
人気ブログの「きっこのブログ」に、自分の書いた文章を寄せてきたのである。これで火がついたのである。
国交省の役人も思ってみない所から火がついてしまった。
小泉と安部でしか、この隠蔽は指示・判断できないのは明らかである。
そして、その安部が『美しい日本』などと、のたまっている。

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05月26日(月)
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