ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2423, 夢のようなホントの話

         Good☆':.*^ヾ('c_'ヽ,,)*.:'☆Morning
週刊誌を何気なく読んでいたら面白い話があったので、紹介しよう。
作家の高橋三千綱のミニ・エッセーだが、引き込まれる内容である。
こういうことが実際にあるのだろうし、また逆のこともあるはずだ。 
 その分岐点は、その人が持っている人間性である。
ーまずは、その部分から
ーー
南カリフォルニアのラ.コスタに滞在していた、ある年の夏のことである。
・・ホテルのラウンジバーで飲んでいると、いつのまにか人の輪の中に紛れ込んでいた。
話題がラスベガスの話になったので、その頃人気のあったマジックショーを見たいものと
私が言った。そうするとニューヨークから来たという初対面の大男が、ではおれが便宜を
計ってやろうと言って電話をかけだした。

時刻は午前一時を回っていた。どうやらホテルのマネージャーを呼び出しているらしい。
相当酔っているな、と私はあきれていたのだが、四日後にはラスベガス空港に降り立っていて、
しかもリムジンが待っていた。それから私は、夢のような3日間を過ごした。
部屋はスイートで寝室がふたつあり、バーも広い談話室もついていた。
最前列で見るマジッグショーは迫力満点で、目の前で巨大な像が消えた。

ホテルでは私専用の女性秘書をつけてくれて、あらゆる用事を彼女がやってくれた。
その全でが大男の招待だった。カジノでも私はつきについた。一体、あの男は何者なのだ、
と秘書に訊くと、ニューヨークの大富豪で、有名なプロデューサーでもあるという。
何も知らなかったの?と驚く彼女を見ながら、こんな話をしても誰も信じないだろうな、
と私は思っていた。
ーー
大金持の酔っ払い世界に紛れ込んだということだ。
その大男からみたら「気分が良かったのでしてあげた」だけのこと。
2〜300万の宝クジに当たったレベルの話でしかないが、それでも
庶民感覚とは、かけ離れた世界の一端を、垣間みた話である。
                ☆bye-bye☆ε(*゜ω^*)

・・・・・・・・
2006年11月22日(水)
2059, あたりまえなことばかり −13
    (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ〜

ここでは、深い哲学のサワリを解りやすく書いてある。
我われは「観念としての死」に、今まで取り付かれてきた。
そして物理的な時間軸を生から死へと一直線の前方に向け生きてきた。
ところがそれは違うというから、面食らってしまう。
「永遠として直感される瞬間とは、それ自体で生死を越えて、生死を飲み込んで 
今ーこの瞬間に立ち上がる!」ということは、人生の深い経験をしてこそ実感できるのである。
経験の裏づけがないと、言葉の言い回し位としてしか理解できないだろう。
いや、鋭いのは解るか?その瞬間の「永遠」は、死後にあるのではない、
生の真っ只中に垂直に立ち上がる。(感動、歓喜の中で)著者の池田晶子の、
その瞬間が以下の文章に立ち上がっている。
仏教でいう、悟り、覚醒感がそのまま伝わってくる内容だ。
 
 −−−−−−−−ーーーー
*死ぬのは不幸なことなのか ーB
 −−−−−−−−−−−−

死は、恐るべき避けるべき事柄と、深く思い込んでいる。
転倒した生存本能としての死の恐怖は、人生の孝、不幸を量るわかりやすい
目安とも化し、観念と現実からも判然としないまま、今も岩のように人類を縛り付けている。
死は、恐れるべきものではなく、あるいは祝福すべきこと、喜ばしきことなのかも知れない、
という可能性である。これは死は恐ろしいもの、と言う可能性と同じく、その論拠は無い。
それを恐れとして、喜びとしての「死後」を提示することで答えようとする
宗教とは哲学は違う。あくまでも、「死後」を語っているのは、生きている人だけである。

    永遠として直感される瞬間とは、そのこと自体で生死を越えている。
    あるいは、すべての生死を飲み込んで、今である。
    考える精神として、一直線に前方へと流れる物理的時間塾から垂直に立ち上がる時、

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11月22日(木)
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