ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2358, ギリシャとエーゲ海の旅 −4
ギリシャに着いて、初めて行ったところが‘デルフィの遺跡’である。
なるほど2500年前に欧州とペルシャ周辺から、王侯貴族が宣託を聞きに行く雰囲気が、
そこにはあった。遺跡の背景には大きな岩盤の山があり、その前には広大な平原があった。
そこに神々しい巫女が御宣託を恭しく述べれば、当時の情報過小の王様など信じて当然。
今でいうと、新興宗教の洗脳演技の舞台として充分な場がデルフィの地にあった。
当時としては国家単位として、洗脳手法ー戦術を冷静に実行していたのだろうか?
しかし、その手法?は、キリスト教的な思想が入ってきてから、衰退していった。
現在でも越後の地元にも、狐を神様?とした「??宗教」が岩塚という村落にある。
あれが存在しえているだけ、地域民度の低さを物語っている。
イングランドの狐狩を、あそこでやればよい!
福沢諭吉の「学問のすすめ」ではないが?
いや、それとも土着レベルの神様も必要である?というのか。
ーデルフィの遺跡ー
アポロンの神託(神のお告げ)が行われた聖域として、
また世界の中心「大地のへそ」として有名なデルフィの遺跡は、
パルナッソス連峰の南の傾斜面のプレイストス河の谷を前に、
天然野外劇場のように広がっていた。パルナス山の麓に築かれた「神託の地」であり、
このアポロンの聖域は古代世界の命運を左右した古代史上で特異な聖地。
南欧やオリエントの王様が戦争や跡継ぎ、統治などの重要な問題について
神託を受けるため、はるばる海を渡り、山を越えて訪れてきた。
・まず上っていくとローマ時代のアゴラ跡があり、
・次にはBC6世紀の宝物殿、アテネ人のストア、アルゴス王たちの奉納像、
アポロンの聖域、劇場、競技場がある。
ここでは多くのポリス(都市国家)をつなぐ宗教的な核として絶大な影響力を持ち、
アポロンの神託が行われた聖域である。
その遺跡の背面には大きな岩盤のような山が背景にあった。
そこの巫女は50歳位の農婦が神の代理として神託を下していたという。
しかし現代からみると、かなり好い加減な内容で、悪用の部分が多くみられるという。
遠くから苦労をして、この地にたどり着き、この雰囲気の中で、巫女の宣託を
受ければ、頭から信じてしまうのも肯けるが・・・。
その一番奥(上)にあった観覧席付きの野外運動場には驚いた。
幅40メートル、長さ200メートルの競技場は、
現在でも何処にでもある学校の運動場のようであった。
ここぞ、ギリシャの神殿の遺跡!という風である。
その翌日いったのがメテオラ修道院である。
その岩山の麓に一泊したが、ホテルから修道院がよく見えたが、
何とも言えない神々しさが漂っていた。
ーー
ーメテオラの修道院ー
ーメテオラ修道院をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
で調べてみるとー
メテオラ はギリシア北西部、セサリア(テッサリア)地方北端の奇岩群と、
その上に建設された修道院共同体、いわゆるメテオラ修道院群の総称である。
その地形及びギリシア正教修道院文化の価値からユネスコ世界遺産(文化・自然複合遺産)
に指定されている。その名はギリシア語で「中空の」を意味する「メテオロス」
という言葉に由来している。
その歴史というと、メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち祈りと瞑想に生きる
キリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既にこの奇岩群に穿たれた
洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていた。
この時代の修道士は現在のような修道院共同体を形成する事はなく、
単独で修行する隠修士が主流であった。
メテオラに修道院共同体が成立したのは、14世紀、セルビア王国がセサリア地方に
勢力を拡大してくる時代であるといわれる。それまで東ローマ帝国で修道院活動の中心を
担っていたアトス山は1346年にはセルビア領の中に組み込まれた。
セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンはアソスの修道院に多大な保護を与え、
その活動を奨励したが、当時の戦乱を避けて多くの修道士がアソスを出て南下し、
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09月17日(月)
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