ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[397135hit]

■2081, あたりまえのことばかり −20
      才八∋ウ_〆(∀`●) 
      
    ここでは哲学という視点で、心の問題を取り上げているが、
    感情について、なかなか切れ味は鋭い。
   「激しい感情が、向こうからの訪れる」とは、なるほど!である。
    向こう側とは何処なのか?
    
    学生時代に[情念の話術]という本を読んで、実際に自分で試したことがあった。
    喜怒哀楽を前面に出して、自分を押し出して、話しをする。
    車でいうと、感情というエンジンを前輪駆動にする。
    
    これをやりだすと、それまでと全く違った自分を見出せる。
    抑えている感情を逆に、エンジン代わりに言葉にのせて自分を奮い立たせる。
    これは性格改造にもなるが半面、非常に危険である。
    一つ間違うと、周囲を深く傷つけてしまう。
    
    これはヒットラーが大衆を煽動する手段として演説などに使った。
    よほど計算を緻密にしておかないと、自分が見えなくなる。
    しかし自分の感情を常に支配下に置くに、よい訓練になった。
    感情を道具にするのだから。
    傷つくということは、感情に支配さえていることだから!
    
    
 ー傷を癒すには傷とは何か、傷つく感情とは何かを、
  考えてみなければなるまい。
  虚構の自我に捕らわれている自分に気づいていない無知が、
  勝手に傷ついているだけである。
   要点を抜粋してみる。
ーーーーーーーーーーー
どうすれば癒されるのか −A
ーーーーーーーーーーー

私が私であり、私の心が私の身体の中に存在するという錯誤の世界像を
思い込んでいる人だけが、各種のグッズやセラピーによって「癒される」。
癒されたと思い込むことができる。

「本当」の傷を負った人々は、そのような単純な主客二元の処方箋では治療できず、
「本当か」の問いに直面するのではなかろうか。すなわち、傷ついている人は誰なのか。
「私の」意志を越えて立ち上がるこの感情の激しさとは何か。
「私の」運命はなぜこのようでなければならないか。私は私である、
すなわち私は自我であるとは明らかに虚構であり、しかも近代特有の虚構である。
それなら、病理として現れるその崩壊現象こそ、ある意味では、
近代以前の本来的のありようを示しているといえるかもしれない。

    古代の人々にとって、感情の自律性とは、それ自体で神々の訪れだったようである。
    怒りの神が、嫉妬の神が、憎しみの神が、到来する、私の心に、このとき私の心が
    私の所有であるとは意味を成さないだろう。感情それ自身が神々である。
    あるいは魂が複数の人格から成るという世界観は、現代のわれわれの心的生活を、
    少なからず解放する。

ある強い感情に圧倒される時、これは「私の」感情ではない。
向こうからの訪れなのだと捉えることは、自己観察の距離を生む。
そして逆に、見慣れない感情、厄介な感情をもむかい入れ、親しむ余裕すら
生じるかもしれない。

    否定的な感情というのは厄介なものである。主客が分かれた世界においては、
    黒々とそこにあるそれは、目を逸らすにも抑圧するにも明瞭にすぎ、
    人は主観のうちに担い切れず、客観の側に犯人探しをして
    その責めを負わせることになる。

現代社会の構造が、人の感情を否定的にしていると思われがちだが、
話は逆で、否定的感情の処理の仕方を知らない現代人が、それを社会のせいに
している場合がおおいだろう。
主観と客観の狭間で、処理することができずに膨張する一方の否定的感情に
追い詰められて、自爆寸前の現代人にとって「魂」という第三の存在の視点として
所有することは、それ自体で対立に風穴を開けることになるだろう。
それはあくまでも視点でしかない。

    主観と客観の対立が虚構であるように、魂もまたひとつの虚構である。

[5]続きを読む

12月14日(木)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る