ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2064, あたりまえなことばかり −15
o( `▽´ )Ψオハヨウ!
7歳の頃、一番上の兄が死んだ時、
姉に「死んで兄ちゃん、どこに行ったの?」と聞いた。
そのときの姉の答えは、
「白い馬になって、空の上の昇っていたいったのよ」であった。
数日後、本当に兄が白い馬になって空に昇って行った夢をみた。
子供ながらに、その時の両親と兄・姉の悲しみは敏感に感じ取っていた。
こういう経験を重ねて、死は怖いもの悲しいものという
先入観が植え付けられるのだろう。
亡くなってから何度か「どこかに行っていた兄が帰ってきた夢」をみた。
空の彼方からというより、そのつど事情が変わっていた。
兵隊から帰ってきたり、旅行より帰ってきたり・・・
人は元気で長生きをしなくてはならない。
世界も、自分も変わっていく。
それは遥かに予測や想像をこえている。
いま、ここは全てである、しかしその全ての背後に
得体の知れない想像をこえた世界がある。
それは、変化していく自分の世界と経験の蓄積の範囲でしか知り得ない。
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他者の死はなぜ悲しいのかーA
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言語と論理に即して考える限り、「死は存在していない」。
自分の死は言うに及ばず、他人の死すら「見つからない」。
しかし、だからこそ、「他者が死ぬ」とはいったいどういうことか、
悩ましいなぞとなる。死は存在しないが、死体は存在する。
他者の死体の存在によって、現実の出来事になる。
死の境によって動いていた体が動かなくなる。
この変化の意味、これが理解できない。
理解できないまま、死体は然るべき手順で処理され、無くなる。
死体として存在していたものが、もう触れることも出来なくなる。
我われが他者の死を理解したと思うのは、やはり物理的肉体の消滅、
その確認ということだ。逆にいえば、物理的確認がなければ、
我われは、「その人が死んだ」ということを、
どこまでも理解できないことになる。
人類における葬式、葬送の儀式とは、この、理解できない他者の死を、
理解しようとするための方策に他ならない。
文化的社会的なけじめを与えるのでなければ、
我われは「その人が死んだ」といえない。繰り返しになるが、死は存在せず、
死は言葉としてしか存在していないからである。
子供が、他者の死を理解できないで、たとえば
「オジイチャンどうしたの?」と聞いたときの答えが
親「死んだのよ!」
子「死ぬってどういうこと?」
親「いなくなることよ」
子「今どこにいるの?」
親「お空よ!」OR「天国よ!」
おそらく多くの子供が、この答えに納得する。
何かが腑に落ちるのである。
無になることが理解できない存在者としての我われにとって、
このような回答は何かが自然なのである。
これが大人になったときにも、基本的に変わらず「彼岸」もしくは「あの世」と
名を変えて無自覚的に変わってないのである。
「死者への語りかけ」、しかし、多くの我われにとって他者の死を「他者の死」として
一般化することは出来ないだろう。
「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」とは、フィリップ・アリエスによる
卓越な分類だが、ふつうに我われにとって問題となり得るのは、
「二人称の死」としての他者の死であって、「三人称の死」としてのそれではない。
通りすがりに見知らない人の死は、人は泣くものではない。
泣くのは見知っている人である。
我が死んだ子、記憶の中の死んだ子は、決して成長することはない。
肉体として存在せず、しかし、記億としてありありと存在する子供と、
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11月27日(月)
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