ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2058, あたりまえなことばかり −12
(。^0^。)ノ オッ
(*^○^*)ノ ハ〜 ヨウ
死は他者の死しか知ることができない。
そして他者のごく身近な人の悲しみの表情をみて、
死=悲しい、という構図を長年人間は描いてきた。
象も死んだ子供や仲間の死を悲しむというが、
それも、その象の表情を見て、勝手に思っているだけである。
虚無になる恐怖感と言えども、「無になる」とは
他者の死体を見たイメージでしかない。
人生ー生死が何ものか解らないのに
意味など果してあるのだろうか?という、疑問が成り立つ。
せいぜい、年寄りの老化現象でしかないのか。
といって、意味の意味が、「価値」とするなら、
「人生の価値は無い!」と切り捨てることも出来まい。
−−−−−−−−−−−−
*死ぬことは不幸のことなのか −A
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「どうせ人は死ぬ」と人はいう。「だから人生に意味は無い」と。
「死ぬ」ということと、人生の意味のあるなしは、どうして関係しているのだろうか。
「どうせ」という言い方によって、死ぬことが既に否定的な意味として捉えられている。
しかし、死ぬことが既に有意味か無意味か、生きていることにおいて言及できない以上、
「死ぬ」ということと、「生きる」すなわち「人生」の意味の有無とは、
関係しないはずである。
文字通りの「観念」としてしかあり得ないところの「死後」の観念によって、
この現実を意味づけようとする、それこそが悪しきニヒリズムなのだと、
ニーチェは指摘した。
生に意味があるのは、この生自身に意味があるからだ。
この生、この瞬間がそれ自身で意味がある
のでなければ、どうして人生に意味などあり得よう。
目を覚ませ、見よ、この現在、この瞬間にこそ、
この永遠は実現しているではないか!
一般的に、早逝した人のことを不幸だと人は言い、
「生きていれば、もっと良いことがあったのに」という仕方でその死を哀しむ。
しかし、「生きていればもっと悪いこともあったのに」とも言えるのだから、
じつは何をいったこともなっていない。
他人の死をどちらかと言えば不幸と感じるのは、残された人の悲しみを思い、
それをそのまま死んだ人の痛恨だとしている場合も多い。
死んだ人が不幸と思うのは、明白に観念でしかない。
他人の死を不幸と感じるのは、どういうことか?
「悔いを残す、残さない」という言い方によって、
人は孝、不幸の感覚を述べようとする。
そのとき、生に悔いを残さないことがその生の幸福であるとされている。
これを言及できない死の側から言えば「成仏できる、できない」
ということになる。
生の幸福の成就のための経験もしくは努力の断絶、
これを不幸だと感じて生きている
われわれは、死そのものを恐れているのではなく、
実は生の不幸を恐れているのだろう。
不幸で死ぬのは不幸だ、だから「まだ死にたくない」であり、裏返せば
「もう死にたい」となり、逆に幸福の絶頂においては、
「もう死んでよい」ということになる。
しかし「死んでも良い」も、死はやはり否定性として捉えられている。
死はかくまで深く生の意味の源泉になっている。
ーーー
私の60歳の実感の一つとして、
「60歳の人生に悔いない」が偽らざる気持ちである。
やり遂げたという悔いは無い、ということではない、
その時点時点で、精一杯であったという意味でしかない。
その「悔いが無い」というのも、
人生の孝・不幸で、孝の要素が多かったと、
自分自身に説得しているに過ぎないことになる。
「死」が、直線上に存在していると思っているからだ。
しかし、そうとはいえ、やはり悔いがないのは実感であるが。
(*^ワ^*)i
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11月21日(火)
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