ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2057, あたりまえなことばかり −11
オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!
− 読書日記
「死と生」は、考えるほど不思議で尽きない。
この無限の宇宙の中で、何で此処に自分が存在しているのだろう。
60年生きてきたが、「自分にとって死はない」というし、
永遠は「いま、ここ」にしかないというし、
人間しか持ち得ない「観念」によって、動物のように十全に生きられないというし、
人間しか持ち得ない精神の思考によって、生物体としての死の恐怖を看破し得るという。
先入観ー馬鹿の壁ーがビッシリと脳にこびり付いていた自分の人生に、
ここで気づいている愚かさ!
そして、周囲を見て、まあいいか、と思っている愚かさ!
自分にとっての時間は生まれ死ぬまでの時間ではない。
永遠は、「いま、ここ」に、垂直に、立ち上がる!
なるほど、その通りである。
我を忘れるほどの感動の、あの瞬間!
縦に立ち上がっていた!
永遠に今も続いている。
薬物でもできそうだが・・・
それは、末期の時の一服の楽しみとして、とっておこう!
**** Ψ( `▽´ )Ψ ケケケケ♪
ーー
*死ぬことは不幸なことか
−@
人間のみが自殺する生物であるのは、人間においてのみ、死が観念として
対象化されているという事実を端的に示している。
観念でない現実の死。とは、どういうことなのか。
多くの人が、人間は死に向かう存在なのだと長く教えられてきた我われが、
そのまま長く思い込んできた、未だ気づかない間違いが、ここにある。
考えてみれば、観念でない現実の死を考えるとする正にそのことによって、
死は常に観念となるという事実。
観念でない現実の死など、観念としてしか存在しない。
しかし人は死ぬではないか、と人はいう。確かに現実に人は死ぬ。
しかし、死ぬのは常に他人であるという事実について考えてみる。
他人の死は自分の死ではない、そこにも自分の死は、存在してない。
人は、他人が死ぬのを見て、死を観念として対象化し、それを自分に類推して、
自分の死が現実に存在すると、思い込んでいるに過ぎない。
ここでもあくまで観念でしかない。
笑うべきことだが、自分の死を考えようとして与えられている思考の真空、
自分がいないとということを、考えている当の自分に、
どうして考えることができるのだろうか!かくして、哲学が誕生することになる。
精神は思考することによって、生物体としての死の恐怖、その錯覚を看破し得る、
だから、考えることこそが、善く生きるということなのだ。
おそらく、生物に存在するのは生存本能であって、死の恐怖ではない。
生きようとするために死を避けるのであって、
死を避けるために生きているわけではない。
人間という生物においてのみそこが転倒しているのは、自ら課した観念による
錯覚のためで、人間は動物のように、十全には生きてはいない。
それ自体で転倒している死への恐怖を逆手に取り、
再び大きく転倒させるものが宗教である。
あるいは、宗教は、考えられないものとしての自分の死、思考の真空地帯のそこに、
「死後」の絵を画く。あたかもそれが、生の続きのように。
しかし、「生の続き」としての「死後」とは、どのようなことでありえようか。
自分の死が観念としかあり得ないのだから、その「死後」というのも、
文字通り観念としかあり得ないのは自明なことだ。
死が観念なら死後も観念である。ふと気づけば当たり前のことである。
人が死と対になった「死後」という観念から離れられないのは、
真空への恐怖だけでなく、時間の一直線に前方に流れるものという、
時間認識の錯誤にもよるのではなかろうか。
時間は一直線に前方に流れるという人々の表象の原型となっているのは、
人は誕生から死へと向かう存在であるという人生の表象である。
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11月20日(月)
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