ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■2031, 「私」のための現代思想  −15

                  (+>∀<+)ノ 
                 おぁはは〜ようさん!

 前・評)
人間は「生きること自体が『緩慢なる自殺』である」と言ってしまえば、
それまでだが、戦争もある意味では集団自殺ともいえる。
いや集団殺戮の方が正しいか?

   《私》にとっての「超越確実言明」を守るために死ぬことも、
    時にとって必要なのかも知れない。
    人間の最後に残された自由へのジャンプとしての自殺もある。

自殺にも正しい自殺と、正しくない自殺があるという。
自分であるために死ぬ、それもイスラエルのマサダの砦の集団自殺のように、
自殺厳禁のユダヤ教徒の自殺なのだから意味も深い。
この場合の自殺を正しくないとは言い切れるだろうか。

    誰の目にも明らかな自殺に「子供の道づれ心中」がある。
    子供を自分の所有物と思いこんでいるから、こういう暴挙にでるのだ。
    自殺をするには、それなりの理由があるが、やはり
   「自殺は決して許されるものではない!」のは、道理である。
    それが永遠の自由のためにといっても!

ーー

第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味
                   −C
 *正しくない自殺*

正しい、正しくない自殺というのも変なものだが、
それでも「正しくない自殺」は、誰の目にもハッキリしている。
それを象徴するのがインターネットで知らないもの同士を募り、
複数の者達が一度に命を絶つ「集団自殺」である。
彼らは「死ねば楽になる」という「誤論理」で揺らいでいるので、
その揺れを止め、自殺を遂行するために、<他者>による引き受けを
必要としている。

    この場合、普通の他者の共振を受けることもできるが、集団自殺志願者は
    その人たちの《私》を嫌います。
    その人たちの《私》は自らの「超越確実言明」を守る方向に走るからです。
    そのような呼びかけに答えてくるのは、同じく「死ねば楽になる」と感じ、
    死を決意している人たちということになる。
    それはお互いの《私》の「非存在=存在の否定」を引き受けあうのだから。

「《私》の存在を引き受けてもらう」はずの行為が、
「《私》の存在を否定すること」を通して行われるからです。
存在の引き受けは、「存在しつづけることを引き受ける」ことであるはず。
しかし集団自殺は、「ともに存在しなくなること」を引き受けあうになって
しまうからです。

   {解}死に際まで独りでは不安なので一緒に行こうという弱者の論理も
    なるほどと思わないでもないが・・・「死にたいやつは死なせておけばよい」
    と同じ意味で彼らは「死にたいのだから勝手に死なせて」というレベル。
    壊れたラジオは自分地震で自らを直すことが出来ない・・・
    この本を読むまで、自殺について考えたことがなかった。
    しかし考えれば考えるほど、自殺を否定できなくなった。
    自殺を否定したのは、「支配階級が最下層の働き手のロスを最小にするために
    つくり上げた価値観でしかない」という論もある。
    ーー


*正しい自殺*

正しい自殺とは、一回性の人生で、闘いぬき、他の物語を時間の許す限り試し、
その結果としてギリギリの判断において、
「死ぬことによってしか、<私>が<私>でありつづけることができない」
と考えるとき、それは「正しい自殺」となるということです。
これは「名誉のための死」とか、「誰かのための死」を称揚するのではなく、
あくまでも「<私>でありつづけるために死ぬ」ということである。

  ーーー

 後評)
正しい自殺かどうか判断できないが、
イスラエルで初めて知った「マサダの砦の集団自殺」である。

マサダ砦は、死海の西南にある要塞。
ヘロデ王の建てた離宮だったが、70年のローマに対する反乱時、

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10月25日(水)
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