ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1999, 「私」のための現代思想 −3
(。^0^。)ノ オッ
(*^○^*) ハ〜 ヨウ
第一章 「私」を縛るものは何か ーU
ーー《価値》についてーー
<価値>とは、何が良いか何が悪いかという時の価値基準をいう。
良い・悪いの規範のことを「道徳」という。
道徳は私たちに本来セットされている「感じ方」や「考え方」ではありません。
私たちが社会から学ぶものです。
多くの場合、道徳は「規範の内在化」という過程を経過して私たちの中に形成される。
道徳そのものに本来は論理性は内在していない、と考える方が妥当です。
ニーチェは『道徳の系譜』において、
キリスト教の価値観の問題点を指摘した。
その論理展開を箇条書きにすると
@、先ずは「力あるものは悪である」と考えた。
A、その逆として、「弱いもの=善」と考えた。
B、@により「力を自分のために使うこと=利己的な行為」は「悪」とされた。
C、Bにより「利他的・非利己的な行為」が善とされるようになった。
ニーチェは、キリスト教においてこのような論理展開が行われたのは
「ルサンチマン(怨恨・反感)」に求めている。
人間は幸福を求める存在である。しかし、自己の幸福を(直接的には)もとめては
ならないとキリスト教は説きます。こうした命令には従うことは普通はできません。
しかし、この宇宙に絶対者が存在し、その絶対者の意志としてそれが命令であれば、
人間は従うしかありません。
従って@^Cに続いて、
次のような論理の展開が行われるようになりました。
D、利己を求めることは「力の発露」であるから、
利己を求める人間という生命体は罪深いものである。
E、「利他的・非利己的」行動こそが、「神の意志」である。
この「僧侶的な善悪の判断基準」と対になるのが、
「貴族的・騎士的な判断基準」です。
ニーチェによると、この判断基準は、
「力を持つこと」「生を楽しむこと」「創造的であること」が、
基本的な「善」とされます。
これはつまり、自己を肯定することが「善」であるということです。
これを実現するためには、不断の厳しい努力が必要とされる。
たとえば、戦争や格闘、冒険や探検、狩猟などのように、
「鍛えられた力が発露されることによって、その成否が明確に表現されるもの」
においては、「勝利すること」「克服すること」「成し遂げる」が「善」であり
「高貴」であるとされる。
当然負けること、諦めること、弱いことは「悪」とされる。
これは、「能力あるものが、さらにその能力を鍛え上げ、
力を行使することによって自己を何がしかのものにしていく」
という生きかたで、「ローマ的な生きかた」と呼ぶこともできる。
ーーーー
ー感想ー
「意味」の意味の一つに、「価値」がある。
逆に「価値の意味」の中に「意味」があるともいえる。
何かこんがりそうな話だが、
「価値」を「意味」とみるのも面白い。
自分が家庭や社会などから知らないうちに形成された価値観、
これが一番、その人そのものを束縛する正体である。
その価値観からの自由こそ、真の自由なのだろう。
しかし、その価値観は手の平と指の関係のように切り離すのは難しい。
だから若い時に色いろな伝記を読む必要があるのだろう。
それと、よい学校に行くことも。
そこでは良い同僚と、良い先輩と、よい教授に出会えるからだ。
(。^0^。)ノホンジャ、マタ!
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2005年09月23日(金)
1634, 創造性とは何かー 日野敬三 対談集
今西錦司との対談「創造とは何か」も深い。
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09月23日(土)
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