ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1860, ローマから日本が見える−11


                 おはよ〜!(*^ワ^*)i    
           −読書日記ー
       
《その戦法を知りながら、
   騎兵力を増強できなかったのか?》

ローマ軍には騎兵を増やそうにも増やせなかった事情がある。
この時代には、鐙が発明してなかったので、自分の両足で馬の胴体を
締め付けて乗るしかなかった。

    この技法は子供の時から馬に乗りなれてないと到底乗りこなせない。
    ちなみにハンニバルは、カルタゴの同盟国の北アフリカのヌミディア人と、
    ガリア人という、騎馬に長けた民族が参加していた。

またローマ軍の主体が重装備歩兵であったため、騎兵中心に変身しにくい要素があった。
重装歩兵がローマ軍組織としてあまりに中心過ぎて、これを変えるとローマ軍の
組織そのものが弱体化してしまう恐れがあった。

《ハンニバルの誤算》

    ハンニバルが限られた手勢でアルプスを越えて、単身イタリア半島に
    乗り込んできたのには、もちろん彼なりの計算があった。
    戦いに勝ち続けていれば、ローマ連合も盟主ローマから離反し、
    寝返ってくる都市が続出すると踏んでいた。

ところが、ハンニバルの予測に反して連合軍の連帯は強固であった。
ローマが長年かけて造り上げた「政治的建設」は、ハンニバルの心理作戦でも
揺らぐことは無かった。

                       茶でも!~~旦_(-ω-`。)
《スキピオ登場》

ローマの総力を結集したファビウスでの持久戦略に持ち込んだBC210年になっても、
ハンニバルを追い込むことが出来なかった。
20個師団を超えるローマ軍はハンニバルを包囲するが、
彼の行動の自由を制約できても決定打を与えることはできなかった。

    しかし、ここでスキピオという若き軍団司令官を得ることになった。
    当時の彼は、25歳である。
    カンネの戦いのとき、19歳の少年だった彼はハンニバルの戦いぶりを観察し、
    何故勝てないのか考え続けてきた。

 そして彼は
『ハンニバルに勝つには、ハンニバルのように闘わなければならない』
という結論に達する。
アレクサンダーの弟子を自認していたハンニバルも、まさか自分の弟子が
敵のローマ人から出るとは思っていなかったでしょう。
しかし、その「まさか」が起こったのです。

    スキピオ・アフリカヌスの登場によって、第二次ポエニ戦役はがらりと
    様相を変えることになる。
    それまでの『天才対組織』の戦いが
    今度は『ハンニバル対スキピオ』の戦いになり、
    イタリア半島からカルタゴのある北アフリカの移る。
    そして、紀元前202年で行われたザマの会戦で、
    ハンニバルは弟子スキピオに敗れることになる。
    この一連の戦いはダイジェストではとうてい述べることは不可能です。

ハンニバルの登場は、ローマに大いなる課題を突きつけました。
そもそも年功序列のローマの共和制では「才能による」抜粋などありえなかった。
ところが、その緊急避難的に選ばれたはずのスキピオが、ことにあろうかハンニバルに
勝利してしまうのだから、こんな皮肉はない。

    彼の活躍で小アジアからジブラルタル海峡まで一気に拡大する。
    その反面、ローマの元老院体制に大きな亀裂をもたらした。
    スキピオ支持派と反対派である。
    その反対派はスキピオを『スキピオ裁判』に持ち込んでしまった。
    保守派は『ローマの政治を私物化している』と弾劾したのです。
    彼は、引退という道を選んで、ひっそりと死んでしまいます。
    
 ーー
 
 いずこの世も新旧の戦いはあるものだ。
 スキピオは今でいう『ベンチマーキング』『ベスト・プラクティス』をしたことになる。
 ベストを真似てアレンジするのが一番合理的であるのは、いつの世も同じである。

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05月07日(日)
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