ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■1329, 教養と自由とバカの壁


「教養とは自由になるためのアーツ(芸術・芸)」と、
昨日の読書日記で書いた。
そういえば「自由」について以前書いたことがあった。
(後に、コピー)

そこでは、自由について
・積極的な自由とは、自分の真にしたいことを見つけて追求すること、
・消極的な自由とは、束縛されていることから解放されること、
 の二つに分類した。

教養とは、真に自分がやりたいことを見つけ実施していくための、
蓄積しておく知識、経験を芸にまで高めておく、ということになる。
また自己を束縛していることから、いかに解放するかのアーツ(芸術)といえる。
 
「話が通じない時、情報を遮断しているもの」を養老孟司が、
「バカの壁」と名づけたが、情報を遮断している小さな固定観念を一つずつ
クリアーしていくことが、経験を芸に昇華していくことになる。
 
自由とは、選択の自由である。
多くの選択肢の中から、一つの選択をしなくてはならない。
これは非常に難しいことである。

そこには決定という自己責任と結果が生まれてきて、その不安に常に付きまとわれる。
そこに哲学が必要になってくる。

教養としての哲学は、取り囲んでいる壁に対して自覚することから始り、
その壁を土台にすること、そして乗り越えるのに必要になる。

話は少し変わるが、
「英語をマスターすることも教養のうちか?」と、問われれば勿論
教養のうちだ。
英語を話せる分、読める分、それだけ自由の枠が広がる。
特に英語は、現在世界の標準語になっているから。

ーーーーーーーー
2004/05/17
1140, 自由についてー1

学生時代より『自由とは何』を考えてきた。
そして自分の自由を優先して生きてきた?
しかし、よく考えてみたら、自由は自分のしたいことをみつけ、それを追及すること
であった。自らの自己実現に対して忠実に生きることであった。
字のとおり「自らに由り、生きること」である。
そして自由な生き方ー周囲の因縁や世間といわれている束縛から解放されている
状態を理想としてきた。

調べてみると、自由には多くの意味やとらえ方があるようだ。
手の自由といっても、しょせんは人間の体の一部としての腕の範囲内の自由でしかない。
といって使い方は自由である。

また自由には、当然の責任がともなってくる。

アイザリア・バーリンは自由を「消極的自由」と「積極的自由」の2つに分類した。
ー「消極的自由」とは「他者からの強制・干渉を受けずに自分のしたいことができるという
意味での自由」であり、
ー「積極的自由は自己が自己を支配している状態」と捉えられる。
例えばカントは、恣意に従うのではなく「理性」に従う状態が自由であると主張している。
また、ハンナ・アレントは政治活動を通じての自己実現こそを自由の本質と看做している。
これは「より高次の自己」を獲得するための手段・条件として捉えられることになる。
このような積極的自由は「個人主義的積極的自由」ととらえられる。

キリスト教世界においては、人間存在の根源的価値を「自由」としている。
ルソーは、その著書「社会契約論」で「人間は自由なものとして生まれた」と述べたが、
「全ての人間が社会において等しく自由である」という事は絶対に不可能である。
かつてホッブズは、各自が己の自由を守る為には「万人の万人に対する闘争」に陥る。と
指摘した。
キリスト教世界において、人間が自由であり続ける為には、戦い続けなければならない。
「自由」という言葉には、英語では2つの単語が存在します。
「Liberty」と
「Freedom」である。
「Liberty」とは「束縛からの自由」を意味し、束縛から逃れる為には、  
 戦わなくてはならない。
一方、「Freedom」は束縛から解放された結果もたらされた自由であり、
「自由な状態」を指します。そして自由な状態が脅かされる時には、やはり戦わなくては
ならない。

哲学者のホッパーは自由を

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