ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■7300,閑話小題 〜飽きずにパンデミックの話
根源的な神秘を探ろうとしている。それを果たせないとしても、人間の理解
に限界があるせいにすぎない。ショーペンハウアーが述ベているように
「芸術家が具体的に行なっていることを、哲学者は抽象的に行なっている。」
哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念というものには
どうしても一般性がつきまとうため、哲学は芸術ほどの深みには到達できない
かもしれない。だがその一方で、哲学にはできても芸術にできないことがある。 
アイリス・マーギックは「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は哲学より深い
ところに達する」と語ったが、哲学には芸術よりすぐれた面がいくらかはある
という意味ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという
意味でもそのとおりである。】
▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような
 文章を読むと、より芸術に触れておくべきだったと実感する。 芸術作品は、
作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み出した人物が全霊を捧げて、作品の
中に魂を入れ込んだ名作である。それに直接触れ、感動するのが一番、人間の
魂を高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。
・・・・・・・
3440, 再び、死について考えてみる ー4
2010年08月26日(木)
  * 死を喩えると
 死を喩えると、旅と、眠り、とされる。 「死ぬ」が旅と、眠り、に
喩えとされることは、プラトン『ソクラテスの弁明』の一節にある。
ー「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは
全く何もない.無」といったようなもので、死んでしまえば何も少しも感じない
といったものなのか、あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいに
とって、ここの場所から他の場所へと、ちょうど場所をとりかえて、住居を移す
ようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚もなくなることで
あって、ひとが寝て、夢ひとつ見ないような場所の、眠りのごときものである
としたならば、死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになる。
・・・・また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなもの
であって、人が死ねば、誰でもかしこへ行くという、あの言伝えがが本当とする
と、これより大きい、どんな善いことがあるのでしょうか、裁判長諸君。」ー
 葬式で、「故人は旅立たれました」というが、夢なら醒め、旅なら帰って
くるのが前提にある。永遠の眠りというと、そこで夢を見る可能性がある。
無に帰した者が夢の見ようがない。あくまで心象風景でしかないのが、これで
わかる。 最近、ブラックホールに喩えることがある。その人の全てが、
その中に吸い込まれ、再び戻ってくることはない、という意味で、喩えとして
科学的風である。 ブラックホールは生命を終えた星が爆発をして、その重圧で
空間の歪が生まれ、穴が開いて異次元?の時空に周辺のものを吸い込んでいく。
これを死に喩えることは、これはこれで、説得力がある。最近、ホワイトホール
も、存在も云われるようになってきた。何処かの歪から何が噴出している空間の
存在。それは生命ということになる。 面白いのが、死の喩えを、生そのものに
している説がある。 これまでの死の喩えのは、生のうちで経験される現象=旅、
眠る、去る、失う、等々である。それらは再び我われの元に帰ってくる可能性
がある。死は絶対性であるから、「死ぬ」に永遠性が現われてくる。そうすると、
永遠に眠る存在になる。こんなそんなで、結局、死は喩えると分かりやすそう
だが、生きている人間の論理というのが露出するだけ。同じ動物の牛に喩えると、
先ほどの喩えは不自然である。死も、生きていることも、幻想でしかないなら
喩えでイメージするのも良いではないか。 少し、眠たくなってきた。
  (字数制限のためカット2011年8月26日)

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