ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6997,読書日記 〜‘残酷すぎる真実’−1
           《『街場の読書論』ー歩哨的資質についてーより》   
≪ …髑髏島の原住民たちがコングの人間界への侵襲を防ぐために建設した、
 あの巨大な「門」を想像してもらえればよろしいかと思う。 「かんぬきと
戸がしっかり機能している場所だと、私たちは「高ぶる波」のすぐ近くまで行く
ことができる。 聖人とは、「境を定め、かんぬきと戸をもって高ぶる波をおし
とどめる」人のこと。 私たち全員がそのような仕事をしなければならないという
わけではない。けれども、時どき、聖人が登場して、「かんぬきと戸」の点検を
することは私たちが人間的秩序のうちで生きてゆくためには必須のことなのである。
 私はかつてそのような仕事のことを「歩哨」(sentinelle)と呼んだことがある。
私たちの社会制度のさまざまな箇所で「ほころび」が生じている理由を私は端的に
「歩哨」の絶対数が減ったことだと思っている。 福島の原発事故は「恐るべき力」
を制御するための「かんぬきと戸」の整備と点検の仕事がほとんど配慮されて
いなかったことを示した。そこには会社の収益や、マニュアル通りの業務や、
自身の組織内の立場を優先的に配慮する人間たちはいたが、「あなたの高ぶる
波はここでとどまれ」と告げる「歩哨」仕事を自分に託された召命だと思って
いる人間はいなかった。
「境を守る」ことを本務とする人間を「戸」の近くに配備しなければならない
という人類学的な「常識」を私たちはだいぶ前に忘れてしまった。
戦争もテロも飢餓も恐慌もない、豊かで安全な生活が半世紀続いただけで、
日本人はその常識を忘れてしまった。 私たちの生きているこの狭く、脆い世界は
「境を守るもの」たちの無言の、日常的な、献身的な努力によってかろうじて
支えられているのだということを忘れてしまった。
崩れかけたこの社会の再構築のための急務は、「歩哨」の備給である。「境」に
おける歩哨のふるまいには定型的なマニュアルもガイドラインもない。もちろん、
一般的な「傾向」はあるが(それは神話や恐怖譚として繰り返し語られている)、
「存在しないもの」の侵襲はどのようなかたちをとるのかを私たちは正確には予測
できない。だから、歩哨たちには「どうふるまってよいかわからないときに、
どうふるまえばよいかがわかる」能力が必要なのである。
その「センサー」を研ぎ澄ますために経験的に効果的な方法が存在する。
宗教的な修業や武道の稽古は本来そのためのものである。
たしかに、そういうセンサーがきちんと機能している人がいる。
WTCへのテロのとき、「なんとなく外に出た方がいいような気がして」
ビルを出て難を避けた人がいた。その日に限って、「ふだんと違う行動をとって
生き延びた人」がどれくらいの数いたのか、誰かが統計を取り、その人たちに共通
する「生き方の傾向」を吟味するというのは興味深い研究主題だと私は思うが、
たぶん「非科学的」と一蹴されることだろう。でも、「わかる人はわかる」
というのはほんとうである。≫

▼ <「存在しないもの」の侵襲はどのようなかたちをとるのか>
 ・朝鮮戦争を勃発とする三次世界大戦なのか、
・数千、数億単位の犠牲者が出る、パンデミックか、
・首都直下型大地震か、富士山の大爆発か、三陸沖大地震による大津波?
などなど考えれば限がない。とはいえ、如何にもならないことが娑婆にはある。
「人生のデザイン」を自ら描き、それに近づく生き方をそれぞれしていけばよい。
難しいが、面白い時代でもある。 鼻歌を歌いながらスキップ? そりゃ無理?
顔が強ばり、泣き声になり、よろけながらも、人間は生抜いてきたんだから!
間違いないのは、「運の良い人は、何があってもプラスに出来る人。」
「運の悪い人は、何があっても運がない」ということ。楽天的に生き、幸運を
引寄せる生き方を心かけることですか。 周りは迷惑千万を承知の上で?

<わかからない人は、所詮はわかからない>のである。ならば…
で、以下の <「いい人」やめて、「ろくでない」になれや> に…
――

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05月11日(月)
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